〝聞こえたかい。きみのために歌ったワン・モア・ソングだ。これが最後だ。沙也夏、さ・よ・な・らだ〟
 健太は心の中で沙也夏に語りかけ、キーボードから離れステージを降りた。


 マスターと圭子は拍手するのを忘れていた。健太が近づいてきてやっと気づいたほどだ。
「素晴らしかったわ。初めて聞いた曲だけど、なんて曲?」
「タイトルはない。今、即興で作ったんだから」
「えっ、オリジナルなの!それも即興!信じられない・・・」
「そうだろうな。歌った本人が一番驚いているんだから。音楽っていうのは、やっぱり感情なんだな。感情のまま素直にメロディーにのせれば、ひとつの歌になるんだ。それが今初めて、分かった気がしたよ」
 健太は圭子の横に座ると、静かにそう言った。
「健太って不思議だわ。どんなに落ち込んでいても、歌うときはボーカリストになるのね。むしろ、その落ち込んでる感情を歌にしてしまう。人を感動させるのが分かるような気がする」
「歌ってる時だけが、すべてのしがらみから解き放されるのかもしれないな。俺はこの三日間忘れてたよ。歌うことの喜びを。歌が自分自身を救ってくれるのを」
「ねえ、ちょっと聞いていい?」
「ああ」
「どうして急に歌おうと思ったの?」
「話せば長くなるよ。でも話さないと、分からないだろうな」


 健太は圭子に沙也夏とのイブのいきさつをすべて話した。圭子は黙って聞いていた。
「素晴らしい女性ね。沙也夏さんって。そして、強いわ。そこまで自分の信念を貫きとおすなんて。私にはとても真似できない」
「ふつうの女じゃなかったってことかもな」
「裏を返せばそこが魅力だったってことよ」
「でもふられたら、なんにもならない」
「それは違うわ。健太はライブの時、言ってたじゃないの」
「ライブの時?」
「精一杯やったのなら自分をほめるべきだって。話を聞く限り、健太は精一杯やったと思う。精一杯やったけど、沙也夏さんの決心を変えられなかったのよ。それはどうしようもなかったことなの。だからね、もうそんなに自分を責めちゃいけないわ」

〝夕陽が射し込む部屋で歌っていた。
 そして心の中でふと声がした。
 もう行く時間だよ
 すると、窓際の椅子に座っていた
 彼女はこう言った
 私のために、もう一曲だけ歌ってくれ
 ないかしら・・・


 去りゆく今日のため、歌おう
 ふたりの日々のために、歌おう
 きみと僕自身のために、歌おう
 別れを選んだふたりのために、歌おう


 僕と彼女は
 うまくいくと思っていた
 だが、別れというものは突然やってくる
 なぜ別れるのか
 それはもう、どうでもいいこと

 今はふたりが過ごしたこの部屋で
 彼女のために精一杯歌うだけ


 去りゆく今日のため、歌おう
 ふたりの日々のために、歌おう
 きみと僕自身のために、歌おう
 別れを選んだふたりのために、歌おう〟


 健太は切々と歌った。自分の感情をさらけだすように。
間奏でもソロはあまりいれなかった。すこしフェイクした程度だった。
 健太は歌いながら、気持がだんだんと軽くなっていく気がした。
 自分はボーカリストだと感じ、初めて感情のままに歌ってると思った。三番もその気持を持続して歌い、エンディングも静かに消え入るよなピアノで終わらせた。
 健太は歌い終えても、なかなかステージから降りて来ようとしなかった。

ただじっと鍵盤を見ていた。

トイレの中で、涙がまたとめどもなく流れた。枯れていたはずの涙が止まらなかった。体が宙に浮いてる感じがした。だが、頭の中にはひとつのメロディが浮かんでいた。コードのひとつひとつさえもが、はっきりと浮かんでいた。
 ひとしきり泣き終えると、顔を洗った。鏡を見ると、青白い顔があった。鏡に写ってる自分の顔をじっと見て、突然思った。
〝歌いたい〟
そう思うと、体じゅうに力が湧いてくるのを感じた。
 静かにトイレのドアを開けた。


圭子はまだいた。圭子は圭子なりに考えていたのだろう。
 健太は圭子の後姿をチラッと見て、厨房にいるはずのマスターに大声で言った。
「マスター!キーボード借りるよ。それとボーカル・マイクも」
 その声にマスターが慌てて出てきて、圭子と顔を見合わせた。
 ふたりとも何事が始まるのかという顔だった。
健太はけっして広いとはいえないステージに向かいながら、とんでもないことを考えていた。アドリブでピアノの弾き語りをするつもりなのだ。ピアノは以前、人前でやっていた経験があるので、多少の自信はある。だが、弾き語りは練習でしかやったことがなかった。やれるかどうか不安だった。


 健太はステージに上がり、キーボードの前に座った。鍵盤に指を軽くおき、感触を確かめ、ボーカル・マイクを調節した。そして、アンプのスイッチをオンにする。
鍵盤を数フレーズ弾いて、声をだしてみる。喉が少し痛い。
酒のせいだと健太は思った。
〝喉の調子が悪いときはそれなりの歌い方をすればいい。それがボーカリストだ〟
誰かの言った言葉が思い浮かんだ。
 健太は大きく息を吸い込み、それから全身の力を抜くように吐き出す。そして、今は自分のもとから去って行った恋人に向って心の中で言った。
〝沙也夏。これがきみに捧げる俺のラスト・ソングだ〟
 肩の力を抜いて、ピアノを弾き始める。低いトーンが店の中に響きわたる。それから伴奏にのって、静かに歌い始めた。