サンプル記事
現在発売中の56冊から、各章をランダムに少しずつ試し読みとしてご紹介していきます。
第一章 白銀の死線
① 出発
忘れもしない、2014年1月30日、午後2時。
私は豪雪地帯として知られる北海道岩見沢市栗沢町の農村へ向かっていた。
目的は、顧客である鎌倉様(仮名)へ、新しいリフォーム工事の見積書を届けることだった。
午前中には主要な仕事を終え、午後から天候が急変するという予報を確認していた。
そのため、「午後2時までには豪雪地帯を抜けよう」と予定を立てていたのである。
北海道の空知地方では、札幌市内が青空でも、空知だけが猛吹雪ということは珍しくない。
雪雲が停滞しやすい地域であり、冬の天候は一変する。仕事柄、その怖さは十分理解していた。
だからこそ、この日も決して油断はしていなかった。
しかし、その予想をはるかに超える自然の猛威が、このあと私を待ち受けていた。
② 白い悪魔・ホワイトアウト
鎌倉様の家へ向かって走り始めて約十分。
空の色が、急に変わった。
それまで灰色だった雲は一気に厚みを増し、次の瞬間、猛烈な地吹雪が道路を覆い始めた。
信号機ひとつない広大な農道。
遮る建物もなく、風は雪を巻き上げ、道路一面を白く染めていく。
地吹雪によって視界が完全に奪われる状態──それが、いわゆるホワイトアウトである。
前を走る車のハザードランプだけが、白いカーテンの向こうでぼんやりと浮かび上がる。
その灯りさえ見失えば、自分が道路を走っているのか、雪原へ向かっているのかさえ分からなくなる。
車内の窓ガラスも、内と外の温度差で一気に曇り始めた。
除湿エアコンを最大にしても追いつかない。
視界は外も内も奪われていく。
「これは危ない。」
そう直感した。
目的地まではあとわずかだったが、私は到着を諦め、引き返すことを決断した。
③ 死線
旋回できそうな場所を見つけ、ゆっくりハンドルを切った。
その瞬間だった。
ガツン――。
見えなかった雪山へ前輪が乗り上げ、そのまま深く埋まってしまった。
アクセルを踏む。
タイヤが空転するだけで、一センチも動かない。
前進もできない。
バックもできない。
完全に身動きが取れなくなった。
私は車を降り、トランクからスコップとスノーヘルパーを取り出した。
吹きつける雪は容赦がない。
耳の中まで雪が入り、目を開けることもできない。
息を吸えば雪が鼻へ入り込み、激しくむせ返る。
頬は無数の針で刺されるように痛み、風は体温を容赦なく奪っていく。
必死に雪を掘る。
しかし掘っても掘っても、強風が雪を吹き戻し、あっという間に元へ戻ってしまう。
手袋には雪がこびりつき、大きな雪玉となってスコップを握ることすら難しくなった。
最初は冷たいだけだった指先が痛みに変わり、その痛みさえ消え、やがて何も感じなくなった。
眼鏡は真っ白に曇り、視界は完全に失われた。
「駄目だ……。」
心の底から叫び声が込み上げた。
「チキショーーー!」
力いっぱい叫んだ。
しかし、その声は猛烈な風に一瞬で飲み込まれた。
誰にも届かない。
この広大な雪原では、自分の存在など無に等しかった。
私は脱出作業を諦め、車内へ戻った。
暖房を最強に入れ、何度も深呼吸を繰り返す。
しかし、不安は消えない。
「このまま後ろから車が突っ込んできたら終わりだ。」
「横転したら助からない。」
「携帯電話の電池が切れたらどうなる。」
頭の中は最悪の結末ばかりが浮かんでいた。
唯一の希望は携帯電話だった。
私は鎌倉様へ電話をかけた。
一回。
二回。
三回……。
呼び出し音だけが虚しく鳴り続ける。
「お願いだ、出てくれ……。」
十回目。
諦めかけた、その時だった。
「もしもし。」
鎌倉様の声だった。
昼寝をしていたらしい。
私は必死に状況を説明した。
「農道で雪に埋まり、動けません。助けてください。」
すると鎌倉様は落ち着いた声で言った。
「分かった。ブルドーザーで除雪しながら迎えに行く。」
その一言に、張りつめていた心が少しだけほどけた。
私は車内で救助を待った。
しかし時間が異様に長く感じる。
五分。
十分。
十五分。
まだ来ない。
「本当に来てくれるのだろうか。」
そんな不安が再び頭をよぎる。
約二十分後。
白い雪煙の向こうに、一台のブルドーザーが姿を現した。
その瞬間、全身の力が抜けた。
「助かった……。」
鎌倉様は牽引ロープを取り付け、ブルドーザーでゆっくり車を引き出してくれた。
さらに前方の雪を除雪しながら、一般道路まで先導してくれた。
約十五分後、ようやく信号機のある道路へ出た。
そこも吹雪いていたが、先ほどまでの地獄とは比べものにならなかった。
私は心の底から鎌倉様へ感謝を伝え、静かに帰路についた。
あの日、あの一本の電話がつながらなければ、今こうしてこの本を書くこともなかったかもしれない。
私はこのとき初めて、『死(凍死)』を覚悟したと思っていた。
しかし、それは違った。
本当に死を受け入れかけた瞬間は、過去にまだあった。



























