人生の記憶を綴る図書館

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何度倒れても、根を張り直して前へ進んできました。

転職19敗、社畜生活、経営の成功と失敗。失敗も遠回りも、すべて人生の財産です。

営業、人間観察、人生設計、静かな革命。

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ようこそお越しくださいました。

言葉で心を照らし、作品で夢を描く。

このブログは、思想作家・村中堅宣が執筆活動の過程で生まれた考察や日々の記録を綴っている場所です。

人生の苦難、人間観察、営業哲学、心理学、健康法、運命学、そして理想社会構想。

日々の記事は思考の記録であり、やがて一冊の書籍へと育っていきます。

現在、回想録シリーズをはじめ、Kindle・ペーパーバック・英文版を刊行しています。

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サンプル記事

現在発売中の56冊から、各章をランダムに少しずつ試し読みとしてご紹介していきます。

 

第一章        白銀の死線

 

① 出発

 

忘れもしない、2014年1月30日、午後2時。

 

私は豪雪地帯として知られる北海道岩見沢市栗沢町の農村へ向かっていた。

 

目的は、顧客である鎌倉様(仮名)へ、新しいリフォーム工事の見積書を届けることだった。

 

午前中には主要な仕事を終え、午後から天候が急変するという予報を確認していた。

 

 そのため、「午後2時までには豪雪地帯を抜けよう」と予定を立てていたのである。

 

北海道の空知地方では、札幌市内が青空でも、空知だけが猛吹雪ということは珍しくない。

 

雪雲が停滞しやすい地域であり、冬の天候は一変する。仕事柄、その怖さは十分理解していた。

 

だからこそ、この日も決して油断はしていなかった。

 

しかし、その予想をはるかに超える自然の猛威が、このあと私を待ち受けていた。

 

 

② 白い悪魔・ホワイトアウト

 

鎌倉様の家へ向かって走り始めて約十分。

 

空の色が、急に変わった。

 

それまで灰色だった雲は一気に厚みを増し、次の瞬間、猛烈な地吹雪が道路を覆い始めた。

 

信号機ひとつない広大な農道。

 

 遮る建物もなく、風は雪を巻き上げ、道路一面を白く染めていく。

 

地吹雪によって視界が完全に奪われる状態──それが、いわゆるホワイトアウトである。

 

前を走る車のハザードランプだけが、白いカーテンの向こうでぼんやりと浮かび上がる。

 

その灯りさえ見失えば、自分が道路を走っているのか、雪原へ向かっているのかさえ分からなくなる。

 

 

車内の窓ガラスも、内と外の温度差で一気に曇り始めた。

 

除湿エアコンを最大にしても追いつかない。

 

視界は外も内も奪われていく。

 

「これは危ない。」

 

そう直感した。

 

 

目的地まではあとわずかだったが、私は到着を諦め、引き返すことを決断した。

 

③ 死線

 

旋回できそうな場所を見つけ、ゆっくりハンドルを切った。

 

その瞬間だった。

 

ガツン――。

 

 見えなかった雪山へ前輪が乗り上げ、そのまま深く埋まってしまった。

 

アクセルを踏む。

 

タイヤが空転するだけで、一センチも動かない。

 

前進もできない。

 

バックもできない。

 

 完全に身動きが取れなくなった。

 

私は車を降り、トランクからスコップとスノーヘルパーを取り出した。

 

吹きつける雪は容赦がない。

 

耳の中まで雪が入り、目を開けることもできない。

 

息を吸えば雪が鼻へ入り込み、激しくむせ返る。

 

 頬は無数の針で刺されるように痛み、風は体温を容赦なく奪っていく。

 

必死に雪を掘る。

 

しかし掘っても掘っても、強風が雪を吹き戻し、あっという間に元へ戻ってしまう。

 

手袋には雪がこびりつき、大きな雪玉となってスコップを握ることすら難しくなった。

 

最初は冷たいだけだった指先が痛みに変わり、その痛みさえ消え、やがて何も感じなくなった。

 

 眼鏡は真っ白に曇り、視界は完全に失われた。

 

「駄目だ……。」

 

心の底から叫び声が込み上げた。

 

「チキショーーー!」

 

力いっぱい叫んだ。

 

 しかし、その声は猛烈な風に一瞬で飲み込まれた。

 

誰にも届かない。

 

この広大な雪原では、自分の存在など無に等しかった。

 

私は脱出作業を諦め、車内へ戻った。

 

暖房を最強に入れ、何度も深呼吸を繰り返す。

 

 しかし、不安は消えない。

 

「このまま後ろから車が突っ込んできたら終わりだ。」

 

「横転したら助からない。」

 

「携帯電話の電池が切れたらどうなる。」

 

頭の中は最悪の結末ばかりが浮かんでいた。

 

 唯一の希望は携帯電話だった。

 

私は鎌倉様へ電話をかけた。

 

一回。

 

二回。

 

三回……。

 

 呼び出し音だけが虚しく鳴り続ける。

 

「お願いだ、出てくれ……。」

 

十回目。

 

諦めかけた、その時だった。

 

「もしもし。」

 

 鎌倉様の声だった。

 

昼寝をしていたらしい。

 

私は必死に状況を説明した。

 

「農道で雪に埋まり、動けません。助けてください。」

 

すると鎌倉様は落ち着いた声で言った。

 

 「分かった。ブルドーザーで除雪しながら迎えに行く。」

 

その一言に、張りつめていた心が少しだけほどけた。

 

私は車内で救助を待った。

 

しかし時間が異様に長く感じる。

 

五分。

 

 十分。

 

十五分。

 

まだ来ない。

 

「本当に来てくれるのだろうか。」

 

そんな不安が再び頭をよぎる。

 

 約二十分後。

 

白い雪煙の向こうに、一台のブルドーザーが姿を現した。

 

その瞬間、全身の力が抜けた。

 

「助かった……。」

 

鎌倉様は牽引ロープを取り付け、ブルドーザーでゆっくり車を引き出してくれた。

 

 さらに前方の雪を除雪しながら、一般道路まで先導してくれた。

 

約十五分後、ようやく信号機のある道路へ出た。

 

そこも吹雪いていたが、先ほどまでの地獄とは比べものにならなかった。

 

私は心の底から鎌倉様へ感謝を伝え、静かに帰路についた。

 

あの日、あの一本の電話がつながらなければ、今こうしてこの本を書くこともなかったかもしれない。

 

 私はこのとき初めて、『死(凍死)』を覚悟したと思っていた。

 

しかし、それは違った。

 

本当に死を受け入れかけた瞬間は、過去にまだあった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

人生100年時代。増えたのは寿命か、それとも労働時間か。

 

55歳から始まった、約30年間の自由時間

 

朝、目覚まし時計に叩き起こされることがない。

 

カーテンの隙間から差し込む柔らかな朝日。

 

淹れたてのコーヒーの香りが部屋に漂い、窓の外からは小鳥のさえずりが聞こえてくる。

 

今日が月曜日なのか、金曜日なのか。

 

そんなことは、どうでもいい。

 

なぜなら、24時間365日、毎日が日曜日なのだから。

 

満員電車もなければ、朝礼もない。

 

意味の分からない会議も、上司の顔色をうかがう必要もない。

 

日曜日の夕方、翌朝の出勤を思い出して憂鬱になることもない。

 

ただ、ゆっくりと息を吸い、ゆっくりと吐く。

 

時間に追い立てられない呼吸。

 

これこそが、究極の贅沢なのかもしれない。

 

■ 人生を味わい尽くすということ

 

同じマンションに暮らす80代のご夫婦。

 

お二人とも元気で、今も旅行を楽しんでいる。

 

当時の定年は55歳。

 

それから約30年間、悠々自適の生活を送ってきたという。

 

旅先で味わう新鮮な海の幸。

 

焼きたての魚の香ばしさ。

 

湯気の立ち上る郷土料理を口に運び、思わず顔を見合わせる。

 

「おいしいねえ」

 

その一言に、人生の幸福が凝縮されているように思える。

 

旅館の露天風呂では、湯の温もりに身を委ねる。

 

頬をなでる風。

 

遠くに見える山並み。

 

季節ごとに色を変える木々。

 

次の予定を気にせず、ただ景色を眺める。

 

時間を消費しているのではない。

 

時間そのものを味わっているのである。

 

■ 映画一本にも、人生の余白がある

 

旅行に出かけない日は、自宅で映画を楽しむ。

 

Amazonプライム・ビデオを開けば、そこには無数の物語が待っている。

 

手に汗握るサスペンス。

 

腹を抱えて笑うコメディ。

 

胸が締めつけられるような人間ドラマ。

 

時には涙を流し、時には登場人物に腹を立てる。

 

映画の余韻に浸りながら、温かいお茶を一口。

 

「あの結末は、どういう意味だったんだろうね」

 

そんな会話を交わす時間さえ、愛おしい。

 

翌朝の出勤を気にして、時計を何度も確認する必要もない。

 

もう一本観ようか。

 

いや、今日はこの余韻を楽しもうか。

 

その選択さえ自由なのである。

 

映画の中の喜怒哀楽を、心ゆくまで堪能できる。

 

自由とは、好きなことができるだけではない。好きなことを、急がず味わえることなのだ。

 

■ 決まった日に振り込まれる生活の糧

 

そして、もう一つ。

 

働きに出かけなくても、定期的に年金が振り込まれる。

 

もちろん、長年働き、保険料を納めてきた結果である。

 

決して空から降ってくるお金ではない。

 

しかし、上司の評価も、営業ノルマも、会社の人事異動も関係しない。

 

仕事の成果に一喜一憂する日々から離れ、生活を支える収入がある。

 

その安心感は、どれほど大きいだろう。

 

ただし、年金額や暮らし向きは人それぞれであり、すべての高齢者が悠々自適というわけではない。

 

それでも、目の前のご夫婦の暮らしには、ひとつの理想郷を見る思いがする。

 

■ ところが、現役世代の時計は違う

 

一方、現役世代の朝はどうだろう。

 

けたたましいアラーム。

 

眠気の残る身体を起こし、慌ただしく朝食を済ませる。

 

駅へ急ぐ足音。

 

満員電車の息苦しさ。

 

職場に着けば、会議、納期、数字、責任。

 

気づけば昼休みも終わり、夕方には新しい仕事が積み上がる。

 

疲れた身体で帰宅し、ようやくソファに腰を下ろす。

 

映画でも観ようか。

 

そう思って再生ボタンを押したものの、いつの間にか眠っている。

 

画面の中では物語が進んでいる。

 

しかし、自分の人生を味うどころか、昼食を急いで流し込む日もある。

 

深呼吸する余裕さえない。

 

同じ24時間。

 

同じ日本。

 

けれど、その時間の質はあまりにも違う。

 

■ 55歳と65歳。その10年間の重み←私が一番社会風刺したい文面

 

かつては55歳定年が一般的だった時代がある。

 

その後、60歳、65歳へと雇用の仕組みは変わり、今では70歳までの就業機会の確保も社会的な課題になっている。

 

もちろん、長く働きたい人が働ける社会は望ましい。

 

仕事に生きがいを感じる人もいる。

 

問題は、働くことを選べるのか、それとも生活のために働き続けざるを得ないのか、という違いである。

 

55歳から自由な時間を手にした人。

 

65歳を過ぎても働き続ける人。

 

その差は10年。

 

単なる数字ではない。

 

春の桜を10回眺める時間。

 

夏の海を10回訪れる時間。

 

秋の紅葉を10回楽しむ時間。

 

冬の温泉で10回、雪景色を眺める時間。

 

夫婦で食卓を囲む、何千回もの夕暮れ。

 

映画を観て笑い、泣き、語り合う無数の夜。

 

10年とは、人生を味わうための膨大な時間なのである。

 

■ 長寿社会の、少し奇妙な矛盾

医学が進歩し、寿命が延びた。

 

それ自体は素晴らしいことである。

 

しかし、ここで一つの疑問が浮かぶ。

 

長生きできるようになったのだから、その分、長く働こう。

 

それは本当に、豊かな社会の姿なのだろうか。

 

寿命が延びた分だけ、人生を楽しむ時間も増えているのだろうか。

 

あるいは、延びた時間の多くを労働に充てる社会へ向かっているのだろうか。

 

高齢者を責めたいわけではない。

 

むしろ、長年働いてきた人々には、心から穏やかな老後を楽しんでほしいと思う。

 

羨ましいのは、年金の金額だけではない。

 

自分の時間を、自分の意思で使えること。

 

その自由なのである。

 

■ 人生100年時代。誰のための100年なのか

 

同じマンションの80代のご夫婦は、今日も元気に旅を楽しんでいる。

 

季節の料理に舌鼓を打ち、美しい景色に目を細め、ゆっくりと呼吸する。

 

その姿は、人生の理想郷そのものに見える。

 

一方で、現役世代は今日も時計を気にしながら働いている。

 

人生100年時代。

 

その響きは、いかにも明るい。

 

だが、長く生きることと、豊かに生きることは同じではない。

 

最後に、こんな皮肉を残しておきたい。

 

「人生100年時代!」

 

ただし、自由時間の開始は年々後ろ倒し。

 

寿命は延びた。

 

さて、人生を味わう時間はどうなったのだろう。

 

――それを考えるために、今回の6コマ漫画を描いてみた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

理想郷工房シリーズ第三弾 発売開始!

 

季節が変わるたびに、わんにゃんたちの毎日にも、小さな「特別」がやってきます。

 

春の風に耳を澄まし、夏の木陰でひと休み。秋の実りに心を弾ませ、冬には家族のぬくもりに寄り添う──。

 

何気なく過ぎていく一日にも、犬や猫たちの目線で見つめると、思いがけない喜びや発見が隠れています。

 

いつもの散歩道、みんなで囲む食卓、そっと撫でてくれる手。

 

その一つひとつが、小さな家族にとっては、かけがえのない思い出になっていきます。

 

『わんにゃん歳時記・リメンバーミー』は、『わんにゃん歳時記・四季をめぐる24の物語 二十四節気編』と『わんにゃん歳時記・カレンダー&行事編』の二冊を一つにまとめた合本です。

 

二十四節気に沿って季節の移ろいを描いた24編と、一年のカレンダーや季節の行事を楽しむ24編。

 

合わせて48編のエッセイと、それぞれの世界を彩る作品画像を収録しました。

 

物語の中心となるのは、二匹の愛犬、レトリバーとコリー、そして二匹の愛猫、キジトラと三毛。

 

個性豊かな仲間たちも加わり、自然とともに暮らす家族の日々を、やさしく、時にはユーモラスに描いています。

 

第一部の「二十四節気編」では、立春から大寒まで、二十四の節気をたどりながら、四季折々の風景と暮らしを見つめます。

 

長い冬を越えて感じる春の気配。

 

雨に潤う大地、まぶしい夏の日差し、秋風が運ぶ実りの香り、静かな冬の夜。

 

季節の変化は、暦の上だけで起きるものではありません。

 

風の冷たさや光のやわらかさ、食卓に並ぶ旬の味わいにも、次の季節の訪れが息づいています。

 

飼い主の目線と犬猫たちの目線を織り交ぜながら、自然の美しさと、家族で過ごす穏やかな時間を紡ぎました。

 

二十四節気に詳しくない方にも、風景と物語を楽しみながら、季節を身近に感じていただける作品集です。

 

第二部の「カレンダー&行事編」では、幼いわんにゃんたちの時代に目を向け、一年の行事や暮らしの中にある、小さな喜びを描いています。

 

お正月、節分、こどもの日、父の日、夏祭り、七夕、夏休み、十五夜、ハロウィン、そして年越し──。

 

家族と迎える初日の出。

 

浴衣を着て出かける夏祭り。

 

夜空を見上げて願いを込める七夕。

 

心を込めて用意するプレゼントや、みんなで楽しむ季節の食卓。

 

初めて見るものに目をまるくしたり、うまくいかずに少し困ったり。

 

夢中になって遊んだあとには、安心できる家族のそばでひと休み。

 

幼子のような無邪気な目線で、季節の楽しさや、日々の暮らしにある幸せを見つめます。

 

楽しい日も、少し寂しい日も、わんにゃんたちは家族のそばで一緒に過ごします。

 

言葉を話せない小さな家族だからこそ、表情や仕草から伝わってくるものがあります。

 

喜びや驚き、心細さ、そして「大好き」という気持ち。

 

そんな純粋な心を、物語と画像を通してやさしく描きました。

 

「リメンバーミー」という書名に重ねたのは、一緒に過ごした時間や、ふとした瞬間のぬくもりを、いつまでも大切にしていたいという願いです。

 

特別な記念日だけでなく、何も起こらなかった穏やかな一日も、振り返れば忘れたくない思い出になります。

 

そばにいてくれたこと、同じ季節を過ごせたこと。

 

その喜びを、わんにゃんたちの姿とともに感じていただければ幸いです。

 

二冊分の「はじめに」と「あとがき」も、それぞれ収録しています。

 

各作品が生まれた背景や、物語に込めた思いとともに、二十四節気と一年の行事をめぐる世界をお楽しみいただけます。

 

最初のページから季節をたどっても、今の季節に合う物語から読んでも、心に留まった画像のページを開いても。

 

日々の気分に合わせて、わんにゃんたちの暮らしを訪ねてみてください。

 

忙しい毎日のひとときに、少しだけ立ち止まって、季節を感じる時間を。

 

犬や猫が好きな方へ。


日本の四季や季節の行事を楽しみたい方へ。


家族との思い出や、動物たちと過ごす時間を大切にしている方へ。

 

ページをめくるたびに、四季の風景とともに、家族の笑い声やぬくもり、そして愛らしいわんにゃんたちの姿が浮かんできます。

 

めぐる季節に、忘れたくないぬくもりがある。

 

わんにゃんたちと一緒に、一年をめぐる小さな旅をお楽しみください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

前職に、給料にほとんど手をつけない課長がいた。

 

では、何で家計を賄っていたのか。

 

パチンコである。

 

月の休日は平均9日。


休みの日は、ほぼ皆勤賞でパチンコ店へ。

 

本人いわく、「座れば最低3万は確保する」最低3万円 × 9日。

 

月27万円。

 

これで家計を賄い、本来の給料はほぼ手つかずで貯蓄へ。

 

そして、その貯まった給料で自宅の屋根と外壁をリフォームした。

 

普通なら、ここでめでたしめでたし。

 

ところが課長は止まらない。

 

次の目標は、「車の買い替え」

 

今日も昼夜、没我没入中。

 

もはやパチンコが趣味なのか、もう一つの仕事なのか、誰にも分からない。

 

 

次期書籍用の番外編ネタを公開

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ブログ書籍化のすすめ

 

 

 

以前、近未来SF映画で「記憶が売買される時代」を描いた作品がよく作られていました。

 

記憶にまつわる映画はかなりの本数を鑑賞しましたが、個人的には、そんな未来がやってきてもおかしくないと思っています。

 

一昔前、アメブロガーだった頃。

 

私はアメンバー限定記事を中心に発信していました。

 

当時のアメンバーは150人前後。

 

記事のコメント欄でやり取りをしたり、アメンバー同士がコメレスをきっかけに仲良くなったり。

 

ひとつの記事から人と人とのつながりが、波紋のように広がっていく。

 

そんな楽しさがありました。

 

しかし、その後は諸事情からSNSでの発信をやめ、すべてのアカウントで「読むだけ」に徹していました。

 

それが今年の3月まで続きます。

 

ふとしたきっかけからAIについて調べ始めました。

 

そこで思ったのです。

 

昔から「いつか本を書きたい」という夢がありました。

 

もしかしたら今なら、できるかもしれない。

 

そこからは、没我没入の境地。

 

マイペースではありますが、一つひとつ積み上げながら、実際に書籍という形にしてきました。

 

そこで今、ブログを毎日のように更新されている方々に、ひとつ提案があります。

 

その体験を、書籍として残してみませんか?

 

ブログは、その日に読まれて終わるものではないと思います。

 

何年も書き続けていれば、そこには膨大な「体験」と「記憶」が蓄積されています。

 

たとえばレシピブログ。

 

料理の作り方だけではありません。

 

何を作り、何を食べ、家族とどんな時間を過ごしてきたのか。

 

積み重なれば、それもひとつの生活の記録になります。

 

旅行記も同じです。

 

どこへ行ったかという情報だけでなく、そのとき何を見て、何を感じたのか。

 

それは、その人にしか書けない記録です。

 

仕事、趣味、子育て、介護、失敗談。

 

長年ブログを書いてきた人ほど、すでに「本の材料」を持っているのではないでしょうか。

 

以前なら、大量の記事を整理し、構成を考え、一冊の本としてまとめるには大変な労力が必要でした。

 

でも今はAIがあります。

 

構成を考える。


過去の記事を整理する。


文章を読みやすく整える。

 

そうした作業をAIに手伝ってもらうことができます。

 

だから今は、「作家だから本を書く」のではなく、「人生を記録してきたから本にできる」そんな時代になりつつあるのかもしれません。

 

かつてSF映画の中で描かれていた「記憶が売買される未来」。

 

それとは少し形が違いますが、人の体験や記憶そのものに価値が生まれる時代は、すでに始まっているような気がします。

 

今書いているブログが、数年後、十数年後には思いもよらない価値を持つかもしれません。

 

そして、その記録を一冊の本として残すこともできる。

 

体験がお金になる時代が、本当にやってくるかもしれない。

 

だからこそ、今ブログを書き続けている方へ。

 

その膨大な体験を、ブログの中だけに眠らせておくのではなく、一冊の本として残してみませんか?

 

未来のために。

 

これは、実際に書籍化を始めてみた私からの、ひとつの提案です。

 

記憶にまつわつテーマの映画群

 

  • 『トータル・リコール』(1990)
    人工的な記憶を植え付けるサービスが存在する未来。「記憶を商品として買う」という意味では、今回の記事テーマにかなり近い作品です。

  • 『ペイチェック 消された記憶』(2003)
    仕事を終えると、その期間の記憶を消される契約。記憶そのものが報酬や契約と結びついています。

  • 『エターナル・サンシャイン』(2004)
    つらい恋愛の記憶を消去する技術を描いた作品。SF色は控えめですが、「記憶を技術で操作する」というテーマが中心。

  • 『記憶の棘』(2004)
    記憶そのものの売買ではありませんが、死者・記憶・アイデンティティーをめぐる不思議な物語。

  • 『インセプション』(2010)
    他人の夢に入り込み、情報を盗んだり、逆にアイデアを植え付けたりする世界。「人間の内面が価値を持つ」という点で近いです。

  • 『アンノウン』(2011)
    記憶と自己同一性を扱ったサスペンス寄りの作品。「自分の記憶が自分を証明するのか」という方向。

  • 『ブラック・ミラー』の「人生の軌跡のすべて」(2011)
    映画ではなくドラマですが、これは今回のテーマと抜群に相性がいいです。人間が見聞きしたものをすべて記録し、後から再生できる社会を描いています。

  • 『セルフレス/覚醒した記憶』(2015)
    意識を別の肉体へ移す技術が登場。記憶と人格は切り離せるのか、というテーマ。

  •  

 

 

 

 

おまけ実体験

 

 

 

 

 

 

 

 

 

空気のように軽く生きる男――64歳奇人の人生の選択肢

 

前職に、少し変わった64歳の男性がいた。

 

いや、「少し」という表現では足りないかもしれない。

 

彼の食生活は、なかなか豪快だった。

 

毎週4回ほど山岡家へ行き、ラーメン+ライス+餃子+チャーハン。

 

そして、スープまできれいに完食する。

 

さらに週3回ほどは、すき家へ。

 

とにかく「満腹」を愛する男だった。

 

普通なら、この年齢になると少しは健康を意識する。

 

「塩分を控えようかな」「脂っこいものは少し減らそう」そんな言葉が出てきても不思議ではない。

 

しかし、彼にはその発想がほとんどなかった。

 

そしてある日、健康診断の結果が届いた。

 

結果は「要精密検査」ところが、それを見た彼は慌てるでもなく、深刻な顔をするでもなく、いつもの調子で言った。

 

「また招待状きたけど、今回も欠席に○だな」

 

精密検査の通知を「招待状」と呼ぶ人を、私はそれまで見たことがなかった。

 

しかも、参加する気は最初からない。

 

そして彼には、もう一つ忘れられない言葉がある。

 

「不健康も健康のうち。好きな物を死ぬまで食べ続けて、それで死ねれば本望だ」

 

もちろん、健康という意味では決して真似を勧められる生き方ではない。

 

それでも彼を見ていると、ときどき不思議な感覚になった。

 

普通、人は年齢を重ねるほど、いろいろなものを背負っていく。

 

健康への不安。

 

老後への不安。

 

病気への不安。

 

そして、「こうしなければならない」「これはやめたほうがいい」という、自分自身への制限。

 

ところが彼には、それが驚くほど少なかった。

 

健康診断の結果さえ、彼の心を重くする材料にはならない。

 

通知が来れば、「また招待状が来た」そして欠席。

 

翌日になれば、また好きなものを食べる。

 

その姿を見ていると、空気のように軽く生きる男だなと思うことがあった。

 

将来を深刻に考えすぎない。

 

周囲の価値観にも、それほど縛られない。

 

そして自分で決めた人生を、自分なりの方法で生きている。

 

健康を大切にするのも、一つの人生。

 

好きなものを優先するのも、本人が選んだ人生。

 

ただし、選択には結果がついてくる。

 

その結果まで含めて、自分で引き受ける。

 

彼の生き方を見ていると、人生の選択肢は、思っている以上に自由なのかもしれない。

 

もちろん私は、健康診断で「要精密検査」が出たら節制する。

 

そこだけは彼を見習わない。

 

だが、余計なものまで背負わず、空気のように軽く生きる。

 

その一点だけは、少し見習ってもいいのかもしれない。

 

 

 

 

 

おまけ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第四章:珍客番外編・記憶の中で常連客をアピールする人々

 

 

今回紹介する珍客は、現在私が働いている職場に現れる「自称常連客」である。

 

おそらく読者の皆様の職場や行きつけの店にも、一人くらいは思い当たる人物がいるのではないだろうか。

 

その客は月に一度ほどのペースでやって来る。

 

そして来るたびに、ほぼ同じ会話を繰り返す。

 

先日も開口一番、「最近、山崎さん(仮名)顔見ないね〜」と言った。

 

(私の心の声)

「いや、山崎さんは毎日のようにいる。月に一度しか来ないのだから、見なくて当然では……」

 

もちろん心の中だけで思う。

 

ところが、この客の真骨頂はここからである。

 

新しいスタッフを見つけると、必ずと言っていいほど近づいていき、「あっ! 初めて見る人だ。俺、ここ長く利用しているから顔覚えてね」と自己紹介を始める。

 

新人スタッフは愛想よく笑顔で応じるが、内心では、「そうなんですね」以上でも以下でもないだろう。

 

しかし本人にとっては重要な儀式らしい。

 

利用頻度よりも利用年数。

 

それが彼の中の常連の定義なのである。

 

毎日来る人よりも、月に一度でも二十年通っていれば立派な常連。

 

そんな独特の価値観を持っているようだ。

 

だから「最近見ないね〜」という言葉も悪気ではない。

 

本人の中では、「ここは自分の居場所」という意識の表れなのだろう。

 

ただ、周囲から見ると、「いや、見ていないのはそちらだけです」という話になる。

 

さらに興味深いのは、このタイプの人は店が変わっても同じ行動を繰り返すことである。

 

喫茶店でも常連。

 

スーパーでも常連。

 

スポーツジムでも常連。

 

病院でも常連。

 

どこへ行っても、その場所の古株として存在したいのである。

 

月に一度しか現れないにもかかわらず、その店の歴史を背負っているかのような存在感を放つ人。

 

珍客シリーズ番外編として紹介したが、読者の皆様も一度は出会ったことがあるのではないだろうか。

 

そして今、誰か一人の顔が頭に浮かんだなら、その人もまた立派な「記憶の中で常連客をアピールする人」である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

通勤時間帯編(スピンオフ記事)

 

 

 

毎朝、だいたい同じ時間に、だいたい同じ道を歩いている。

 

すると不思議なもので、名前も知らないのに「今日もいる」と確認してしまう人たちがいる。

 

北海道の寒空でも驚くほど薄着の人。


真夏なのに、見ているこちらまで暑くなりそうな完全防備の人。(芸能人?不審者?視線恐怖症?)


そして、毎朝決まった場所から通勤する人々を眺めている人……。

 

会話をしたことはない。


おそらく、この先もない。

 

それでも毎日のようにすれ違っていると、いつの間にか通勤風景のレギュラーになっている。

 

今回はスピンオフとして、そんな「なぜか気になるご近所さん」たちを5コマにしてみました。

 

『ご近所観察記・通勤時間帯編』

 

今日もそれぞれの朝が始まります。

 

 

 

 

 

おまけ

 

 

 

 

 

 

 

私を含め、誰もがクレーマーになり得ることを、第十章にまとめました。

 

 

 

 

 
 
 

 

 

 

 

本日、2026年10月1日から、すべての事業主にカスタマーハラスメント対策が義務化されました。

 

「クレーマー」「カスハラ」という言葉を耳にする機会も、これまで以上に増えていくかもしれません。

 

では、クレームを言う人と、言われる人。

 

その境界線は、本当にはっきりしているのでしょうか。

 

クレーマーについて書いてきた私自身も、店やサービスに対して不満を伝えたことがあります。

 

つまり、誰もが状況次第では「クレームを言う側」になり得るということです。

 

そこで今回は、書籍
『気をつけたいクレーマー10傑・今度はあなたの番かも』
より、最終章の一部をサンプル記事でご紹介します。

 

第十章

誰もがクレーマー予備軍であるということ

 

この章では、タイトル通り、自分自身もクレーマー予備軍であるということにスポットを当てたい。

 

ここまでクレーマーとの数々のエピソードを綴ってきたが、最終章は私自身がクレームを言った三つのエピソードで締めくくろうと思う。

第一話――ホテルの朝食で感じた違和感

 

第一話は、行楽で倶知安町のホテルに宿泊した際の話である。

 

その宿は温泉が人気で、豪雪地帯ならではのスローライフを満喫するため、二月に利用した。

 

ところが朝食を食べている最中、思わずクレームを言う流れになってしまった。

 

オープン直後の利用客は私一人だったこともあり、若い女性スタッフは手持ち無沙汰な様子だった。

 

椀や小皿が一つずつ空になるたびに近づいてきて、何の声掛けもなく食器を下げていく。

 

水のグラスが減れば、これまた無言で水を注ぎに来る。

 

つまり終始、声掛けが一切ないのである。

 

私にはそれが不愛想というより、機械的な作業に映った。

 

サービス業として大切な部分が欠けているように感じたのである。

 

五回目、ついに声を掛けた

 

そして五回目だっただろうか。

 

最後の総菜皿が空になり、それを下げに来た際、私はこう言った。

 

「さっきから何も言わずに食器を下げたり、水を注いだりしているけれど、そういうやり方を教えられているの?」

 

女性スタッフは小さく、「いいえ……」と答えた。

 

そこで私は続けた。

 

「普通は食事中に食器を下げる時、『失礼します』とか『お下げしてよろしいでしょうか』と声を掛けるものではないですか」

 

女性スタッフ「はい……」

 

しかし、その後も「申し訳ありません」の一言はなかった。

 

おそらく接客教育が十分になされていないのだろう。

 

これ以上言っても仕方がないと思い、注意はそこで終わりにした。

 

翌朝、接客が変わった

 

翌朝の朝食でも、偶然同じ女性スタッフが担当だった。

 

すると今度は、食器を下げる際に、「失礼します」と声を掛けてくれた。

 

退店時には、「ありがとうございました」とも言ってくれた。

 

私が指摘したことで変わったのか。

 

それとも、何も言わなければ以前のままだったのか。

 

その答えは分からない。

 

だが、接客というものについて改めて考えさせられる一幕であった。

 

クレームとカスハラの境界線

 

クレームを言うこと自体が、直ちにカスタマーハラスメントになるわけではありません。

 

不満や改善してほしい点を伝えることと、相手を威圧したり、社会通念上許容される範囲を超えた要求をしたりすることは同じではありません。

 

ただし、不満を抱いた瞬間は、自分の言葉や態度がどこまで強くなっているのか、自分自身では気づきにくいものです。

 

「自分はクレーマーではない」そう思っている人ほど、一度立ち止まってみる。

 

クレーマーについて考えることは、迷惑な誰かについて考えることだけではなく、自分自身について考えることでもあるのかもしれません。

 

*因みに、このホテルはコロナ禍の煽りからコロナ禍期間中には廃業しています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第十章 転職の転機を振り返る
― 変化を選び続けた理由 ―

 

 

 

振り返ると、私の転職には不思議な共通点があった。

 

最初に現れるのは、大きな事件ではない。

 

違和感である。

 

それまで当たり前だった職場なのに、ある日を境に、何とも言えない居心地の悪さを感じ始める。

 

勤続年数は関係ない。

 

一年未満のこともあれば、長年勤めた職場もあった。

 

ただ共通しているのは、「この場所での役目は終えたのかもしれない」という感覚だった。

 

もちろん、その時点では転職など考えていない。

 

むしろ、気のせいだと思おうとする。

 

しかし不思議なことに、その違和感は少しずつ大きくなっていく。

 

やがて、周囲との波長の違いを強く感じるようになる。

 

以前なら気にならなかった会話。

 

以前なら受け流せた価値観。

 

それらが妙に引っ掛かるのである。

 

さらに面白いことに、その頃になると必ずと言っていいほど、どうしても相性の合わない人物が現れる。(人事異動や転職配属)

 

仕事の能力ではない。

 

善人か悪人かでもない。

 

ただひたすら、波長が合わないのである。

 

話していても噛み合わない。

 

考え方も合わない。

 

行動原理も理解できない。

 

無理に合わせようとすると、かえってストレスだけが増幅していく。

 

今振り返れば、その人物は私を苦しめるためではなく、次のステージへ押し出すために現れた存在だったのかもしれない。

 

そして転機が近づくと、さらに不思議な現象が起きる。

 

次の選択肢に関する情報が、やたらと五感に飛び込んでくるのである。

 

テレビから流れてくる言葉。

 

偶然耳にした会話。

 

新聞や広告。

 

街中の看板。

 

なぜか特定の情報だけが、強く意識に残る。

 

まるで見えない何かが、「次はこちらだ」と知らせているような感覚だった。

 

そうした流れが続いた後、最後に訪れるのが限界点である。

 

もう無理だ。

 

もう、ここではない。

 

そう腹の底から感じる瞬間が来る。

 

すると、不思議なほど迷いが消える。

 

それまで動かなかった心が、一気に切り替わるのである。

 

私の場合、その瞬間を迎えると、人生の歯車が急激に回り始めた。

 

まるでゲームのステージが切り替わるように、新しい環境、新しい人間関係、新しい学びが次々と現れた。

 

当時は、単なる転職だと思っていた。

 

しかし今振り返ると、あれは職場を変えていたのではない。

 

人生の次のステージへ進むための、移行期間だったのである。

 

――書籍『元雑草社畜回想録』より抜粋