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kenro-miniのブログ

kenroが見た、行った、読んだもんをつらつら書き。美術展、映画、本、旅行など。


2024年の日本の小中高生の自殺は527人で過去最多という。子どもの数がどんどん減っていて、全体の自殺者は減っているのにこの数値だ。G7の中で10〜19歳の死因で自殺が1位なのも日本のみだという。自殺の原因は「学校関係」とあり、当然いじめが想定される。1994年に起きた愛知県西尾市の中学生自殺事件は、同級生からによる壮絶な暴力と恐喝が原因であったことが、少年の遺書から判明している。苦しくなる。

小学校に入学したばかりの7歳のノラ。友だちもできず、3つ上の兄が頼りだ。でも、お弁当の時間は勝手に移動して兄アベルの元に行ってはいけないし、その兄がトイレの便器に突っ込まれるなどいじめられているのを目撃してしまう。アベルに誰にも言うなと口止めされるが、お父さんに伝えてしまう。するとアベルの予想通りにいじめはひどくなるのだ。友だちもできつつあり、今度は見て見ぬふりをして、過ごそうとするノラ。一応、いじめる側の保護者と和解し、アベルへのいじめは止んだが。今度は、アベルが体格のより小さな子をいじめている現場に出くわす。ノラのとった行動は。

目線と視界がすばらしい。カメラはノラの目の高さだ。そして、被写界深度の浅い視界で、すぐ近くにしか焦点が合っていない。そう、子どもの視界は大人よりずっと狭いのだ。それは子どもの社会自体が狭いことの現れだ。そう、子ども、ノラにとっては「校庭」が世界のすべてなのだ。しかし、社会が狭いことと、意識や思索の範囲、可能性といった大人にとっては当たり前の抽象的観念が狭いことと同一ではない。それを論理的、説得的に表現する語彙、伝え方を持たないだけで、表せない、的確に訴えられないことも考えていないことと同義ではない。

これほどまでに子どもの視点に立った演出、カメラワークに驚嘆する。余計なBGMもない。子どもをめぐる問題は、大人が介入して解決しようとするが、そもそも大人は気づいていない。それが痛いほどよく分かる。そしてまだ小さく、非力なノラに何ができるのか。何をしなくてはならないのか。もどかしいが、子どもをめぐる真実でもある。この痛みを誰に、どのようにして、なぜ伝えればいいのか。伝えれば、自分もアベルも楽になるのだろうか。見ていてとても、とても痛い。

愛知県西尾市の事件当時より現在では不登校という選択はしやすくなった(ただし、同事件ではいじめる同級生が被害者を毎朝家まで迎えに来ていたという。)。だから大人は、社会は、学に行けないなら行かなくていいよとのコースを提示はする。しかし、基本的に学校は行くものと大人も子どももその規範を内面化していて、不登校の子どももその状態ゆえに自分を責め、時に自ら命を断つ子もいる。不登校が必ずしも安心できるアジールにはならないのだ。

舞台のベルギーでは、学校には肌の色の違いなどいろいろな子もいるようだ。だが、いじめの背景は人種や障がいなどを理由にする差別と原因がはっきりするものばかりでない。むしろ、人種や障がいなどによる差別は大人社会の反映であって、子どもの間に起こるのは体格の違いや、「いじめやすい」からといった、まさに「視界の狭い」理由によるものも多いだろう。こう書く私自身、子どもの頃、体が小さく、気が弱く泣き虫で「男らしくない」ことでよくいじめられた。苦しかった。

カメラワークといい、進行、アンチエンディングの手法は、ベルギー映画で子どもの世界を描いたら随一のダルデンヌ兄弟の作風と酷似している。脚本も書いた新鋭のローラ・ワンデル監督はダルデンヌ兄弟から多くのことを学んだと語っている。納得した。(Playground/校庭(英題) 2021ベルギー映画)