今日は、語学Dayでした。
午前中、こちらの国語の試験。
午後は、専門のプレゼンテーションを英語でして、
夕方は、ロシア語の試験。
今、頭が痛いです。
予想していた最低ラインですべて通りました。でも最低ラインです。
チェスの単位ももらおうと思っていつもの時間に行ってみたらもう誰もいませんでした。試験期間が近いので早く終わってしまったみたいです。
こちらに来て、試験漬けになって、欧州の試験の評価基準というものがわずかながら、分かってきたように思います。
ほとんどすべての科目で評価に先生の主観が多かれ少なかれ入ってくるような仕組みになっているようです。
これは、考えようによっては、僕たち日本で教育を受けた者からみたらとてつもなく恐ろしいことです。
日本の試験だったら、机に向かっての答案用紙との戦いがすべてなのに対して、こちら欧州では、どうやら盤外戦、もう少し具体的に言えば、いかに先生に高く評価してもらうかということが、高い評価につながるようです。
これは当たり前のようですが、そうでもありません。例えば、日本だったら、「この学生、勉強できなさそうだなあ」という印象を先生にもたれても、試験でよい成績を取れば、いい評価がもらえます。
しかし、こちらでは、講義中の印象でだいたいのその学生の成績をイメージして、試験(口頭試験が多い)でその評価になるようにもっていくことが多いようです。
だから、講義などであらかじめ、先生に対して「よくできる学生」というイメージをもってもらうことがよい評価をもらうためには重要になってきます。
これは僕も含めた日本人にとってはかなり不利です。日本人は、むしろ自分の能力を低くみせることを美徳とすることが多いので講義中に知ったかぶりなど絶対しません。知っていても、100%確信がないとよく分からないと言ったりします。但し、試験ではいい点を取ることに一生懸命になりますけど。
こういう試験の評価制度だから、ちょっとがんばりようがないんですよね。昔の秀才もかなり戸惑っております。(いや秀才というほどではないですが、ちょっと秀才と言わしてください)
欧米では、大学の入学試験はなく、高校の成績でいける大学が決まるらしいのですが、これはかなり怖いですね。
もちろん「日本の答案用紙一枚で人生が決まってしまう」というのも怖いですが、この欧米の様式もかなり怖いです。
欧米では高校でももちろん同じように評価は教師の主観で決められるとしたら、教師から高い評価を得られる学生がいい大学にいくことになります。
だから、日本とは一流大学に行く人の質が違うのではないでしょうか。
おそらく、この欧米の方式では日本で東大に行っている多くの人が東大(一番難しいと言われている大学)に行けなくなる可能性が高いと思います。
将来、指導者になる人を選択するのに、もしかしたら、「自分を高く評価させる」のに長けた人たちを選択する方が、日本式の「勉強がよくできる人たち」を選択するよりも実際、社会では出世には役立つかもしれません。
その反面、「ほんとに勉強のできる人たち」が埋もれてしまう可能性もあると思います。
以前、相対性理論のアインシュタインが高校の時は、「できの悪い生徒」だったとどこかで読んだ記憶があるのですが、ひょっとしたら、こうした欧米流の評価の仕方で出来が悪いと評価されていたのかも、と今思いました。
将来の物理の天才が高校時代、物理の成績が悪いというのは、ちょっと考えにくいです。
しかし、この欧米の評価様式(先生がこの生徒はできないと評価したら、低い評価がつく)なら納得できます。たぶん、アインシュタインが先生にも理解できない変なことを言ったりしたのではないでしょうか。それで先生が彼を低く評価したのではないか?と僕は推測しました。
試験漬けで辛い中でも、こうした他文化についての発見がいろいろあって、ヤッパリ留学は面白いです。
ところで、今日の3つの科目の評価なのですが、
「こちらの国語」「6」:おそらく、ちゃんと出席した学生の中では最低。僕の友達は「8」をもらっていたが、「その違いはなんやねん」と叫びたい。
専門:9 これの試験はずっとトップを取っていて、今までの成績を平均すれば、初の「10」をもらえると思って期待していたのですが、「9」でした。先生によっては「10」という評価は出さない人がいてるので仕方ないですね。「10」をもらえる可能性のある学生は僕だけだったのですが、「9」になってしまったので、上位5人ぐらいといっしょの成績になってしまいました。
でも、一つ、朗報。今日のプレゼンの評価が「10」でした。これは受講生で僕だけでした。
ロシア語:「6」 これもなんでやねん。僕よりも出席してない奴でも「7」もらってたのに。わからん。
まあ、そういうことでまだまだ試験は続きます。