一人想うこと:想うままに・・・ 気ままに・・・ 日々徒然に・・・ 

一人想うこと:想うままに・・・ 気ままに・・・ 日々徒然に・・・ 

『タイムスリップぼくらの空手道』
~昭和の風に吹かれて~
という小説を”けんあうる”のペンネームで出版しました。
また、『もう一人の自分』という小説も出版しています。
ぜひ読んでみてください。

 裏庭の京ブキが良い具合になってきた。

 

 

 早速、食べごろのやつを刈り取り、カミさんが油いためにしてくれた。

 

 

 ほんのりと苦みがあり、春の香りがする。

スーパー等で売っている煮ブキとは全く違い、今しか食べられない旬の山菜の味。

酒のつまみにも良いし、美味しく頂きました。

 

 ついでにサクランボの根元を見ると、ウドが良い具合に伸びている。

 

 

 こいつは今度天ぷらと酢味噌和えにしよう。

酒のつまみには最高だね。

楽しみ楽しみ・・・!!

 

其の〈17〉八月七日 七夕の夜

 

 翌朝、いや、すでに昼を過ぎているんだろう、強い日差しがブラインドの隙間を通して入ってくる。俺は自宅のベッドで目が覚めた。

一瞬、まだ美砂が横にいるように感じる。それほど、身体中いたるところに美砂の余韻がぬくもりとして残っていた。

 美砂も同じように今頃目を覚ましているのだろうか? いや、まだ寝ているんじゃないだろうか? 明け方、塩谷までタクシーで帰ったので、俺より寝るのは遅くなったはずだ。美砂が起き始める時まで、美砂のぬくもりを感じながら、もう少しベッドの中にいよう。そう思い、俺は再び目を閉じた。

 気が付くと、すでに陽は陰り始めていた。

俺はやっとベッドから抜け出し、コーヒーを落とそうと台所にいった。

すると、そこには妻が作って置いてくれた食事が用意されていた。

そして、その横には置手紙がある。

『ちゃんと食べてね。

今日は棚卸があるので、帰りは深夜になります。

先に寝ていていいからね』

 そう書かれていた。

現実に引き戻された一瞬だった。

 

 俺は妻が作ってくれた食事に手を付けることができなかった。

それは、妻に対する後ろめたさからだろう。そうに違いなかった。

 コーヒーを落とすと、俺はソファーに座り窓の外を眺めた。

すでに陽は落ち、藻岩山の向こうが紅く染まっている。

 俺はコーヒーをすすりながら、タバコに火を点けようとした時だった。

家の電話が鳴った。

 取ると大田だった。

「やっとクラス全員に連絡がついた。

クラス会はお盆にしようと思っている。

お盆に帰札する奴もいるので、その方がいいだろう。

出欠の連絡をもらっている奴もいるが、詳しい日時や場所はお前のパソコンのアドレスにメールしておいた。

後で目を通しておいてくれ。

じゃあな」

 何故か淡々と話す大田の言葉遣いが気になった。

それでも、俺はクラス会の日程が決まったということで、美砂とどうやってクラス会に行こうかと、頭がいっぱいになっていた。

 三十五年前と同じように、「たまたま入口で一緒になっただけです」と言おうか? それとも、別々に入っていこうか? いや、やはり、今度は美砂と腕を組んで堂々と会場に入っていこう。

大田や担任の岩本先生、そして相沢や皆の驚く顔が想像するだけで楽しくなってくる。

 俺は自分勝手にそう思い、一人にやけながらコーヒーを飲んでいた。

 

 すっかりと陽が落ちると、俺はビールを取り出し、飲みながら大田のメールを見ようとパソコンを立ち上げた。

 アウトルックを開くと、大田からのメールが届いている。

早速開いた。

 クラス会の日程は8月14日午後7時となっている。場所はススキノの居酒屋だった。

 居酒屋の名前には憶えがあった。三十五年前と同じ居酒屋のようだ。

 大田も粋なことをしやがる。そう思っていると、エクセルのファイルが添付されているのが分かった。

 クラス会名簿のようだ。

 俺は直ぐにそのファイルを開いた。

懐かしい名前が並んでいる。男子から始まる、あいうえお順だ。

 俺は上から順に見ていった。皆元気そうだ。

 そして女子の部。

一番最初は相沢だった。

この前、大田の家で会った時には聞けなかったが、新姓 前川となっている。やはり結婚しているようだ。

次には美砂の名前、麻倉美砂があった。当然だが未婚だ。新姓は無い。

そのあとを見ていくと、女子で独身なのは美砂を含め三人だけだった。

三十五年という月日を感じた。

 俺はもう一度、男子の部の最初から見ていった。

住所を見ていると札幌以外は三人ほど、そして職業欄を見ると、それなりに社会的地位に就いている者もいる。

 俺はそのまま女子の部を見ていた。

相沢は結婚しても札幌市内にいるようだ。そして次は美砂。

この時、先ほどは気づかなかったが、美砂の住所欄が空白になっていた。

『どういうことだ? 美砂の居所は、実家に聞けばすぐに分かるはずだ』

 だが、空白になっているのは住所欄だけではなかった。

自宅やスマホの電話、メールアドレス、そして職業欄、そのすべてが空白だった。

 俺は、

『美砂の実家はすでに札幌にはなく、連絡がまったく取れなかったんじゃないだろうか。だから大田も電話であのようにいつになく淡々としたしゃべり方だったんだろう。大田らしい気遣いだったんだ』

 単にそう思いながら、俺はマウスを動かし一番右端の備考欄を見た。

 その時だった。

俺はそこに書かれていた文字を見て、身体全体がわなわなと震えだした。

 そこには、赤い文字で、

『故人』

 と書かれていたのだった。

 

 マウスを握る右手の震えが止まらない。

『どういうことだ? これは・・・

大田の野郎、ちゃんと調べたのか?

連絡がつかないからと言って、勝手に決めつけたんじゃあないのか?』

 俺はそんなことを考えながらスマホを取り出し、大田に電話をした。

「もしもし、大田か?

今、クラス会名簿を見ているけど、これは・・・」

 俺の話を遮るように大田は話し始めた。

「佐伯、そこに書いてある通りだ。

実家の母親に聞いたので間違いはない。

二十年前のことらしい。

静岡で発病したようだ。

白血病だ・・・ それも急性・・・

一週間と持たなかったようだ。あっと言う間に・・・」

 それ以上聞きたくはなかった。俺は話の途中で電話を切った。

 絶対に俺は信じない。そんなバカな話があってたまるものか。俺は昨日美砂と一緒に一夜を共にしたんだ。俺の身体には、まだ美砂の余韻が残っているんだ。

美砂の豊かな胸、透き通るほどの白い肌、微かに香るコロンの匂い、低くあえぐような声、そして潤いのある温かさ。それらすべてが俺の身体、俺の五感に余韻として残っているんだ。

 信じられるわけがないだろう。俺は直ぐに骨董屋に電話をした。そう、あの『小樽塩谷海岸物語』に。

 

 呼び出し音が鳴っている。その間、俺の心臓ははち切れんばかりに高鳴っていた。

「早く出てくれ!」

 その時、呼び出し音が止まった。やはり、あの骨董屋は俺だけのためにあるようだ。

だが、ホッとしたのも束の間だった。

電話口に出たのは、機械的な女性のメッセージだった。

「この電話番号は現在使われておりません」

 何度かこのメッセージが繰り返された。

 俺は、『Zombies』という名のブックカフェにも電話をしてみた。

「あそこにいなければ、この喫茶店にいるから」

 そう言った美砂の言葉が、わずかな期待を乗せて頭の隅を過っていった。

だが、ここも同じだった。

機械的な女性の声が流れるだけだった。

どういうことだ? どういうことなんだぁーーーー!?

 叫び声に近かった。

 自分でも何をどうしていいのかまったく分からない。

頭の中が完全に混乱している。ある意味錯乱状態だ。

俺にとって一番大切なものが、またなくなっていくような、そんな恐怖心のようなものに襲われていた。

 気が付くと、俺は小樽の塩谷海岸に向けて車を走らせていた。

いつもなら、下の一般国道を走るのだが、何故か高速を飛ばしている。

とにかく急がなければ、その一心だった。

 先行車を抜き続け、小樽に入ろうとしたその時だった。

キーホルダーから、「チャリン」というカギ同士の当たる音がした。

何気に触ってみると、キーホルダーに付いているはずのスコッチバンクスのカギがなくなっている。いや、どこかに消えてしまったようだ。

 時間がない。

咄嗟に俺の右足は、アクセルペダルを床まで踏みつけていたのだった。

 

 高速を降り、小樽市街を抜けると直ぐに塩谷に着いた。

国道を右折し、海岸へと続く一本道を走る。あの骨董屋はこの道路沿い左側にある。

 俺は一軒一軒確認するように車を走らせた。

そして雑貨屋の隣に来た時、俺は静かに車を止めた。

「これは・・・」

 息をのむしかなかった。

そこには、朽ち果てかかった木造の廃屋が静かにたたずんでいるだけだった。

 俺は車から降りると、その廃屋を見上げた。

窓や玄関には板が打ち付けられ、あの、骨董屋の、『小樽塩谷海岸物語』という看板すらない。

元の廃屋の状態に戻っていた。

「これは・・・ あの骨董屋はどこに行ったんだ・・・」

 そうつぶやきながら足元を見た時だった。

車のヘッドライトに照らされ、ほんのりと浮かび上がる小さな柳の小枝に施された七夕飾りがあった。

「今日は八月七日。七夕か・・・」

 俺はしゃがみこむと、その七夕飾りを手に取った。

一枚の短冊が小枝に結ばれている。

そこには、走り書きのような筆字で次のように書かれていた。

『逢えてうれしかった

ありがとう

私はもう帰ります』

 俺は天を仰いだ。

すると、上空を白い航跡が海に向かって飛んで行った。

「ジョナサン!」

 俺はこの時、感じていた。

ジョナサンが飛ぶ姿を見た時、美砂はまだいる。俺の直ぐそばにまだいる。

そう感じていた。

 俺は車に飛び乗ると、ステーションに向かった。

着くと須藤はいないようだ。店内も事務所も明かりは消えている。

 俺は艇庫からシーカヤックを運び出した。

それはいつも使っている一人乗り用のシングル艇ではなく、美砂が乗りたいと言っていた二人乗り用のタンデム艇だ。

 海に滑り出すと、俺は後部座席に飛び乗り、ジョナサンを追うように沖に向かって一気に漕ぎ出した。

 どれぐらい漕いだだろう。時間というものがすでに分からなくなっている。

振り返ると、陸の明かりはほとんど見えなくなり、俺の周りを満天の星空が覆っていた。

そして、その星空の中をジョナサンが舞うように飛び始めた時だった。

前のコックピットに美砂の影がうっすらと現れたのだった。

 美砂は俺と呼吸を合わせてパドリングしている。その後ろ姿からは、初めてシーカヤックをパドリングしているとは思えないほどだった。

 

 海風が気持ち良い。

美砂のストレートな髪が風になびいている。

 俺はいつまでも美砂と一緒にシーカヤックを漕いでいたかった。

だが、ジョナサンが天空に向かって上昇を始めた時だった。

 美砂は漕ぐのを止め、ゆっくりと振り向くと、フッと笑った。

いつもの愛しい笑顔。それは、「ありがとう」とでも言っているかのようだった。

そして美砂の姿は徐々に薄れ始め、海霧のように消えていったのだった。

 見上げると、満天の星空に一際煌めく天の川が流れていた。

その天の川に向かって一筋の星が流れた。

その星を追うように、天空に向かって矢のようにジョナサンが上昇していく。

これがジョナサンを見た最後だった。

 

 

 

 

其の〈16〉ふたりの夜

 

 

 路上に出ると、そこは酔客であふれ返っていた。時折、若者の雄叫びのような声や、若い女性の嬌声が聞こえる。かなり泥酔している奴もいるようだ。

 信号待ちで止まると、後ろには瞬く間に人波ができてくる。そして信号が変わると、その大きな波に押されるように通りを渡った。

 地下鉄への出入り口は、この駅前通りにある。俺は、その出入り口へ向かって美砂と二人で歩いた。

 美砂は相変わらず俺の左腕に絡みつき、時折頬を寄せている。言葉を交わすこともなく、ただ、二人で歩いていた。

 俺は何気なく空を見上げた。だが、ススキノの夜空に星はなかった。明るいネオンでそれはすべて掻き消されている。ただ、一筋の白い航跡だけが俺と美砂の上空をゆったりと飛んで行った。

 地下鉄への出入り口の直ぐそばまで来た。終電の時間が近いせいか、大勢の人が吸い込まれるように入っていく。

 俺は迷っていた。

『もっと美砂と一緒にいたい。このまま美砂を返していいのか?

美砂だって、もっと俺と一緒にいたいんじゃないか?

だからこうやって美砂は俺の左腕にしがみついているんじゃないか?』

 俺の足が一瞬止まった。

そして、また動き出すと、その出入り口を何事もなかったかのように、俺は通り過ぎて行った。

 俺は空を見上げた。上空にいるはずのジョナサンは舞い降りてくる気配はない。何故か安心した俺は、美砂と連れ立って、そのまま歩き続けた。

 美砂は何も言わない。当然、地下鉄の出入り口を通り過ぎたのは分かっているはずだ。だが、相変わらず俺の左腕にしがみついたままだった。

 俺は歩き続けた。足の向かっている先はススキノのはずれ、中島公園の方へ向かっていた。それも駅前通りから二本西側の小路を。

 ここまで来ると、さすがに人通りはまばらになる。ポツポツと見えるのは、男女の二人連れだけだ。皆寄り添って歩いている。

 道幅が徐々に狭くなってきた。すでに飲食店はほとんどなく、道の両側にはホテルが立ち並んでいた。すべてラブホテルだ。

 気が付くと、俺と美砂はホテル街を歩いていた。前を行く二人連れが、一組、また一組と、そのラブホテルに吸い込まれていく。

 そして・・・ とうとう俺と美砂だけになった。人影は他に誰もいない。俺と美砂だけ、二人だけがこのホテル街を歩いている。

 このまま中島公園まで歩き続けるのか? そこから地下鉄に乗ろうとしても、すでに終電は終わっている。

 俺は歩きながら空を見上げた。白い航跡がスーッと上空を通り過ぎていく。

やはり、このままあてもなく歩き続けるしかないのか・・・

 そう思っていると、白く高い塀に囲まれた洒落たホテルの横を通った。その塀は所々隙間が空いており、自由にホテルに出入りできるようになっている。そして、ホテル自体も純白で、夜空に向かってライトアップされていた。

 そのライトアップされたホテルの屋上を白い航跡が通り過ぎ、陰に隠れた時だった。

 俺は塀の隙間に強い力で左腕を引き込まれた。美砂は、そのままずるずると俺を引きずるようにホテルのロビーに入って行く。そして、迷わず空いている部屋のパネルをタッチし、そのまま上階に向かうエレベーターに向かったのだった。

 

 気が付くと、俺は美砂に連れられるままホテルの一室にいた。

ドアが閉じ、オートロックの音がすると、美砂はゆっくりと振り向いた。

俺の目を見つめるその眼差しは、何か思いつめているようにも見えた。だが、愛しい。本当に愛しい。

 俺は美砂の腰に両手を回すと、美砂は俺の首筋に両腕を巻きつけ、唇を求めてきた。

激しく唇を押し付け合い、舌を絡ませむさぼり合う。

 美砂の腰に回していた俺の両手が、美砂の背中を鷲掴みにしている。

もう抑えることはできない。いや、その必要性もないだろう。

 俺は美砂の衣服を一枚、そして一枚とはぎ取っていった。美砂も俺の上着を唇を押し付けたまま肩から外し、腰のベルトを緩めている。お互いの衣服を動物的、いや、本能のままにはぎ取り床の上に捨てていった。

そして最後の一枚が床に落ち、お互いに生まれたままの姿になると、何故か落ち着きが戻った。

 俺は美砂をゆっくりと抱きしめた。美砂の身体の温かみが伝わってくる。

すると、美砂は俺を見つめ、何故かフッと笑った。そして俺の両手を取り、そのまま後ずさりするようにベッドに誘ったのだった。

 ベッドに横たわる美砂のふくよかな胸。そして、透き通るほどに抜けるような白さの裸体が、淡く灯っているスタンドの明かりに映えている。

 俺は美砂の横に横たわると、もう一度唇を求めた。美砂の裸体からは微かにコロンの香りがする。その香りの中、お互いの身体を抱き合い、激しく押し付け合う。身体中に熱いものが湧き上がってくるのが分かる。舌を這わし、お互いの身体を愛撫し、むさぼり合った。

 美砂の息遣いが荒くなってきた。

白い肌がほんのりと紅潮している。

 俺はゆっくりと美砂の上に身体を重ねた。軽く口づけをし、そのまま美砂の首筋に唇を押し付ける。

 美砂は両腕を俺の背中に回し、抱きしめながら俺の身体を挟むように足を開いていく。

そして、促すようにその手を俺の腰に当てた。

「来て・・・」

 耳元でささやく微かな声だったが、部屋に入って初めての美砂の言葉だった。

 俺は促されるままにゆっくりと美砂の身体の中に入っていった。

 軽く美砂のあえぐような低い声が聞こえ、一瞬身体が硬直し、美砂の両手に力が入るのが分かる。

 お互いに抱き合いながら、俺は美砂の身体の中にいた。

そこは温かく、潤いがあり、そしていつまでも俺を優しく包み込んでくれていた。

 

つづく

 

其の〈15〉スコッチバンクス

 

 

 スコッチバンクスは電車通り沿い、駅前通りとの交差点の角のビルにあったはずだ。

 俺は電車通りを美砂と二人で歩いた。

所々に赤ちょうちんやラーメン屋があり、今でも昔の風情が残っている。

懐かしく思いながら歩いていると、美砂は俺の左腕に両手でしがみつくように腕を絡め、上目使いに俺を見て、フッと笑った。

 その時、横を路面電車が通り過ぎていった。俺は高校の時、路面電車に乗って通学していた時のことを思い出した。あの時の、横に乗っていた美砂の笑顔は今とまったく同じだった。

 駅前通りに近づくと、周りは高層ビルが立ち並び、人通りは徐々に多くなってきた。夜も遅くなってきたせいか、酔客が目立つ。どの顔も楽しそうで幸せそうだ。

 俺はふと、何気なく上空を見上げた。

「あれっ?」

 その時だった。ビルの谷間を縫うように、スーッと白い航跡が飛んで行った。

「あれは・・・」

 ジョナサンだった。

 今日はいないだろうと思っていたが、甘かったようだ。しっかりと美砂を見守っている。

「大丈夫ですよ、ジョナサン。ミサには絶対に手を出しませんから・・・」

 俺は思ってもいないことを呟いていた。本当は美砂が欲しくて欲しくてしょうがない。それこそ、うずうずと我慢できないくらいだ。

 そう思っていると、突然、

「パーンチ!!」

 と美砂の左手が眼前に飛んできた。

「なぁ~に考えているの? また良からぬことを考えて・・・ これこれ!」

 美砂はおどけながら握った左手で俺の頬をグリグリした。そして、あの愛くるしい目で俺を見ている。

「別に・・・ なーんにも考えていないよ。ただ・・・ ほれ・・・」

 俺はそう言って目で上空を指した。上空ではジョナサンが旋回している。

「フフフッ・・・ ちゃーんと来てる。でも・・・ 今日は来なくてもいいのに・・・」

 そう言う美砂の目は、何故か残念そうだった。

 俺は、

『ひょっとして、ミサは俺と同じことを考えているんじゃないだろうか?

いや、俺よりも望んでいるんじゃないだろうか・・・?』

 そう自分勝手に思っていた。

 俺は美砂の肩を抱き寄せ、頬をすり寄せた。

 美砂もスッと頬をすり寄せる。

 そうしているうちに、懐かしい看板が目に飛び込んできた。

 駅前通りの角にあるビル。そのビルの地階に降りる階段の隅に、その看板はさりげなくあった。

 トレードマークとなっているカギが描かれている。

まさしく、それはスコッチバンクスだった。

 

 

 「ほら、やっぱりあった。ねっ? ちゃんとあったでしょ!」

 美砂は何故か得意顔で言っている。だが、俺は今一つ納得がいかなかった。そう、ネットでいくら検索してもヒットしなかったからだ。

 俺はチラッと上空を見上げた。何かあれば、ジョナサンが舞い降りてくるはずだ。だが、ジョナサンは相変わらずビルの上を旋回している。舞い降りてくる気配はないようだ。

「よし、入ってみよう」

 俺は安心して美砂を地階へと誘った。

 階段を下りていくと途中の踊り場で、俺は何故か軽いめまいを感じた。そして、天井の蛍光灯がうっすらと白く霞む。霧がかかっているようでその先が見えない。

 立ち止まり、目頭を押さえていると、

「大丈夫? 酔っ払っちゃった?」

 と美砂が俺の顔を覗き込むようにして聞いてきた。

「いや、大丈夫だ。ちょっとクラッとしただけだ」

 そう言うと、めまいは直ぐに収まり、視界もすっきりとしてきた。

やはり、ちょっと酔いが回ったようだ。

 階段を下りると、すぐ目の前にスコッチバンクスのドアがあった。そのドアは、三十年前とは違う何か不思議な感じのするドアだった。

 俺は一瞬躊躇したが、ドアを開けるとすぐ横でウエーターが待っていた。

白髪をオールバックにまとめ、細面の顔に口髭を蓄えている。彼は軽くお辞儀をすると、こちらを見て丁寧な口調で言った。

「ようこそ、いらっしゃいませ。お二人様ですか?」

 俺は軽く頷くと、ウエーターは地階のワンフロアすべてを使っている広い店内に俺と美砂を案内した。

 店内はソファー席が並ぶラウンジとなっている。その中のステージにほど近い席に俺と美砂は案内された。

 ステージ上では、女性ピアニストがジャズを奏でていた。譜面で顔は見えないが、黒いストレートなロングヘアーを後ろで清楚にまとめている。弾いているのは懐かしい曲、テイクファイブだ。女性らしく艶っぽさがにじみ出ていた。

 店内を見渡すと、ほぼ満席に近い。客層は若い連中はほとんどいない。俺と同年代か、少し上ぐらいだろう。そのほとんどがカップルだった。

 ウエーターがメニューを差し出したが、俺の注文するものは初めから決めていた。

カティーサーク18年 デラックス。俺はそれをボトルで注文した。正直、高価だったが、俺はこの先も美砂と二人でこの店に来たかった。それにこのスコッチは若い時からの憧れでもあったからだ。

 ステージ上の曲が終わったようだ。客席から多くの拍手が送られている。

その中をピアニストが譜面を閉じ、立ち上がると一礼した。その時、俺をチラッと見たような気がした。

 瞬間、俺は自分の目を疑った。ピアノを弾いていたのは美砂だった。いや、美砂と瓜二つの女性だったのだ。

 俺は横にいる、いや、いるはずの美砂を見た。

 美砂は、何故か穏やかな顔をして、「どうしたの?」と聞いてきた。

そして、俺が驚き、狼狽えているのを察してか、落ち着いた声でこう話した。

「本当に私そっくりね。自分でもびっくりするぐらい似ている。

でも、私、ピアノ弾けないの知っているでしょう? 本当は弾きたかったんだけど・・・」

 俺はギターを弾いていた高校生の頃、美砂がピアノを弾きたいと言っていたのを思い出していた。

 もし、美砂がピアノを弾いていたら、あのピアニストのようにジャズを弾いていたかもわからない。

 この店は、『若い時の夢を少しだけ叶えてくれる』そんな店になっているんじゃないだろうか・・・

ふと、そう思っていた。

 

 ほどなくして、先ほどのウエーターがボトルを持ってやってきた。

テーブルの横にひざまずくと、グラスを二つ。そして、氷とミネラルウオーター。最後にカティーサークを置いた。

 俺はグラスに氷を入れていると、ウエーターは俺にボトルのカギを渡した。

三十年前と全く同じ真鍮製のカギだ。そのカギには、俺がボトルを頼んだ時にお願いしたボトルの番号と同じ番号が刻まれていた。

それは、『M0926』と。

 俺は、そのカギを美砂に見せた。

 美砂は懐かしそうにカギを見ている。そしてカギに刻まれているボトル番号に目がいった時、一瞬驚きの表情を見せた。

「これは・・・」

 そう口を開きかけた時、横にいたウエーターが穏やかな表情で言った。

「その番号は奥様のお誕生日ですか? その日には、ぜひお越しくださいませ。私どもも、ささやかながらお祝いをさせていただきます」

 『奥様』という言葉に美砂の表情が一瞬ほころんだ。気のせいか頬が紅く染まっている。

「はい、絶対に来ます!」

 声までもが弾んでいた。

「では、今日はごゆっくりとおくつろぎくださいませ」

 そう言ってウエーターは一礼すると、カウンターの方へ戻って行った。

 俺はグラスにカティーサークを注いだ。琥珀色のスコッチがグラスの中で揺らいでいる。

 美砂とグラスを合わせた。懐かしい、いや、それ以上の味だった。

 美砂は一口飲むと、

「私、本当に奥さんに収まっちゃおうかな・・・」

 と、グラスを両手で持ち、遠くを見るまなざしで言った。

そして、俺の方に向き直ると、

「大丈夫、変なこと考えていないから・・・

けど、ジロウとこうして二人だけでいる時だけは、そうしていたい・・・」

 そう言って、俺の肩に頬をすり寄せた。

 俺はただ頷き、美砂の肩を抱き寄せていた。そして、もう一口カティーサークを口にすると、何故か不思議な嬉しさだけが込み上げてくるのだった。

 

 

 次のライブまでは、小一時間ほどあるようだ。

俺はボトルのカギをキーホルダーに付けると、大田の家で中学校時代の何人かが集まったのを美砂に話した。

「そう言えば、この前、大田の家で同級生が何人か集まったんだ。みんな元気そうだった。特に相沢なんかは全然変わっていない。昔のまんまだ。

あれで髪をおさげにしてセーラー服着せたら今でも中学生で通るかもわからん」

 そう言って自分でも可笑しくなった。

 美砂も横でプッと笑っている。

 俺は続けた。

「それでな、今度クラス会をやることになったんだ。

幹事は大田だ。そのうち美砂のところにも大田から案内が行くと思う。

また二人で一緒に行こう。一緒に行って皆を驚かしてやろう。

こうして美砂と会っているのは大田も知らないからな。

みんなすげーびっくりするぞ!」

 俺はちょっと得意気に話した。だが、美砂の横顔にフッと寂しげな影が一瞬過ったのが見えた。それは、本当にほんの一瞬だった。

 美砂はフッと気を取り直したようにこちらを見ると、いつもの愛くるしい顔で言った。

「そうだね。今度は腕組んで堂々と二人で行こうね。

こうやって二人でいれるんだから・・・」

 そして、スッとまた俺にもたれかかるように身体を寄せた。

 俺は話続けた。

「そう言えば、大田が言っていたんだけど、佐藤ってやつが三年前の春に、ニセコの尻別川で事故死したのが新聞に載っていたらしいんだ。

佐藤雄太か? って聞いたら名前までは分からんと言っていた。

俺が、佐藤雄太なら、この前ニセコで会ったぞって言ったらびっくりしていた。

大田はてっきり佐藤雄太が事故死したと思っていたからな。

佐藤って苗字は結構多いし、ドライスーツを着用していたら沈しても低体温症にはならないだろう・・・」

 俺がそう話していると、美砂が俺に身体を預けたまま、消え入るような声で話した。

「そうなんだよね。いつもはちゃんとドライスーツ着ていたのに・・・

あの時はどうして・・・」

「えっ? 今なんて言った?」

 美砂の最後の言葉をかき消すように、店内から盛大な拍手が沸き起こった。次のライブが始まったようだ。

 俺はもう一度美砂に聞いたが、やはり俺の声は美砂の耳には届かなかったようだ。美砂は身体を起こし、身を乗り出すようにステージ上に見入っていたのだった。

 

 

 ステージ上では五人のグループが準備をしていた。

全員が濃いダークグレーのスーツを着用している。

襟元のVゾーンが小さく四つボタン。スラックスは細身でネクタイも細い。

それは、60年代に流行ったスタイル、モッズ・スタイルだった。

 俺はそのスタイルから、当然ビートルズのコピーバンドだと思った。

だが、一人多い。ビートルズは四人だ。ま、さしたる問題ではない。キーボードを入れたら五人になる。

 いよいよ演奏が始まった。

聞いたことのあるイントロだった。

「これは・・・」

 ビートルズの曲ではない。日本のGS、カーナビーツが歌ってヒットした、『好きさ 好きさ 好きさ』だ。

 彼らはGSのコピーバンドか・・・?

そう思いながら聴いていると、ボーカルが歌い始めた。

 俺は、この時初めて気づいた。彼らは日本人ではない。全員白人で歌詞はすべて英語だった。そう、彼らが歌っているのは、カーナビーツがカバーした『好きさ 好きさ 好きさ』の原曲、ザ・ゾンビーズの『 I Love You 』だった。

 店内にいるほとんどの客が、このグループ目当てに来ているようだ。

皆、ノリノリに盛り上がっている。特にカップルの中には、立ち上がり、二人で踊っている者たちまでいた。

 美砂も例外ではなかった。身体全体でリズムを取り、曲に乗っていた。

 俺は不思議な感じがした。この一種異様な盛り上がり。ある意味、異常な感じすらした。なぜここまで皆興奮するのか・・・

 曲はこの後もゾンビーズのビートの効いた曲が続いた。それはコピーバンドというものではなかった。明らかに本物。若い時にレコードで聴いていた音そのものだった。

そしてステージ上の彼ら。それはレコードジャケットの写真でしか見たことのないザ・ゾンビーズのメンバー、彼らそのもの・・・ 俺の目にはそう映っていたのだった。

 

 

 

 

 ビートの効いた曲が何曲か続いた後、サマータイムが流れた。

ゾンビーズ特有のバラード調に歌われたサマータイムだ。

 一瞬店内が静かになった。ボーカルの声だけが客席に響き渡る。

その歌声を聴いていると、カップルのほとんどは抱き合いながらチークしている。そして涙していた。

 何の涙なのか? 俺には想像もつかない。だが、美砂も俺の左腕に執拗なほどにしがみつき、そして閉じた目からは一滴の涙がこぼれていた。

 この時、ボーカルの歌声が俺の耳にはっきりと残っていた。

それは、『Don’t You Cry』“泣くんじゃないよ”という声だった。

 俺にはこのサマータイムという曲が、店内にいる客全員に何か諭しているように感じていた。

それはなんだろう? もうすぐ訪れる別れだろうか・・・?

そんな雰囲気さえ感じられる曲だった。

 

 

 

 

 サマータイムを歌い終えると、バンドのメンバーは一呼吸置くようにそれぞれミネラルウォーターを飲んでいる。そしてボーカルが何か話し始めた。

 当然英語だったので、意味はよく分からない。だが、彼らのステージが今日最後のライブであり、これから歌う曲が、『Last Song』そう、“最後の曲だ”と言っていることだけは分かった。

 店内を見渡すと、カップルの多くがお互いを見つめあい、そして何か語りあっている。まるで最後の時間を惜しむかのようだ。

 俺は美砂を見つめた。

美砂は俺の左腕にしがみつき、時々頬をすり寄せている。

そして上目使いに俺を見た。その目は何故か穏やかで、いつにも増して愛らしかった。

 俺は自分の鼻先をツンと美砂の鼻先に擦った。美砂はフッと笑うと、軽く口づけをしてきた。そう、チュッと軽く。

 俺は思わず美砂を抱きしめた。美砂は俺の胸元に顔をうずめ、目を閉じ、そしてスッと頬をすり寄せる。

 美砂の髪からは、ほのかなシャンプーの香りがする。美砂の匂いだ。

 俺は美砂を抱きしめ続けた。

『このままずっと、ずっと一緒にいたい』そう思っていると、最後の曲が始まった。

 ザ・ゾンビーズの名曲、『Time of the Season』“ふたりのシーズン”だった。

 俺はステージ上の彼らを見上げた。美砂もうっすらと目を開け見上げている。

するとボーカルは、肩を寄せ合っている客の一人一人を見つめながら歌っていた。

それは、

『いつの日か、またここで・・・ このスコッチバンクスでお会いしましょう・・・』

そう言っているように俺は感じていた。

 

 

 

 

 曲が終わると、彼らは静かに、そして消え去るようにステージ上から降りて行った。

 一瞬、店内が静まり返った。時間が止まったように感じる。

そして、フッと何故か穏やかな風が流れたように感じた時、またゆっくりと時間が動き出したようだ。

一人、また一人と立ち上がりスコッチバンクスを後にしていく。

 俺は腕時計を見た。終電の時間が迫ってきたようだ。

 美砂も分かっているのであろう。俺を見つめている。

「そろそろ行くか?」

「うん・・・」

 美砂はゆっくりと頷いた。

そして、スコッチバンクスを後にする時、俺はもう一度店内を振り返った。

すると、ドアの内側で例のウエーターがお辞儀をして見送ってくれていた。

ただ、その向こうの店内は、薄い白霧が覆っているようで、俺の目に映るものは何もなかったのだった。

 

つづく

 

其の〈14〉ススキノの夜

 

 美砂と会う約束をした前日の夜、俺は懐かしいパブをネットで検索していた。

その名は、スコッチバンクス。店名が示す通り、ウイスキーを主体として提供している店だ。しかもスコッチ。そして、時間ごとに生バンドのライブが楽しめる店だった。

 スコッチウイスキーは今でこそ気軽に飲める酒だが、当時は高値の花だった。

なかなか若い連中が飲める酒ではない。

それでも俺は、美砂とススキノで飲むときには必ずスコッチバンクスに行っていた。と言っても、札幌に戻り仕事をするようになってから、二年目ぐらいまでだが。

 スコッチバンクスはボトルをキープすると、その証としてキーホルダーとしても使える真鍮製のカギがもらえる。これもバンク(銀行)という店名から由来しているもの。もちろんカギの番号とボトルの番号は同じだ。

 当時、このカギを所有しているというだけで、それがある種のステータスだった。

そして、スコッチバンクスは大人の雰囲気を楽しめる、あの時代の数少ない店の一つだった。

 俺はネットでスコッチバンクスを検索しまくった。だが、なかなかヒットしない。どうやら札幌は閉店したようだ。ま、それはそれで良い。これも時代の流れだろう。明日は別の店に行こう。

 俺はそう思い、パソコンを閉じた。

 

 

 翌、金曜日の夜。

 俺は仕事が終わると、一度家に車を置きに帰り、タクシーで東王ホテルに向かった。

 妻には取引先との会合がある。とだけ言ってある。取引先と飲むのはいつものことなのだが、何故か今日は帰りの時間だけは言ってなかった。

正直言って後ろめたい気持ちはある。だが、この感情だけはどうにも抑えようがない。それに美砂はすでに俺の心の中を埋め尽くしていた。

 札幌東王ホテルはススキノの玄関口にある。

タクシーを降りると、金曜の夜ということもあって、すでにかなりの人出だ。

まだ薄明るいというのに、信号が変わるつど、人の波が押し寄せてくる。

 俺は人をかき分け、東王ホテルのロビーへと入っていった。

待ち合わせの時間まではかなりある。美砂はまだ来ていないようだ。

 俺は、隣接する東王プラザとの連絡通路のところで待っていた。

ここからだと、ロビーの中や玄関から入ってくる客が一目で分かる。

 ロビー内を見渡すと、俺のように待ち合わせの客が多いのが目につく。それは東王ホテルにチェックインする客よりも多いくらいだ。

ただ、待ち合わせで待っているのは、俺以外すべて女性だった。それも見るからに華やか。一目でクラブのホステスだと分かる。

 同伴出勤の客を待っているのであろう。時折、腕時計で時間を確認し、玄関の人の出入りに目線を移している。それは客を待つ。というよりも、恋人を待っている仕草に見えた。そして、待ち人が来ると、目いっぱいの笑顔を振りまき、腕に絡みつきながら夜のススキノへと消えて行ったのだった。

 俺は時計を見た。もうすぐ七時になる。何故か心臓が高鳴っている。初めて美砂とデートした日のことが思い浮かんだ。

 あの時代のあの頃。そう、その時と同じように、もうすぐ美砂が来る。そう思っていると時計の針が七時を示した。すると、玄関の回転ドアを抜けるように美砂が現れたのだった。

 俺は一瞬見とれてしまった。周りにいる、どのホステスよりも華やかに見える。かと言って派手ではない。質素な中にも、あでやかさが他の誰よりもにじみ出ていた。

「待った?」

 美砂は俺の目の前で立ち止まると、そう言った。

そして、俺を見つめる愛らしい美砂の目。その目を見ていると、今までの空白期間などまったくなかった。俺は、そう思えるほど美砂を愛おしく感じていた。

「うん、ちょっとだけ・・・」

 俺はフッと笑うと、そう返事した。

 昔から、いや、いつものちょっとした会話だった。

「さて、どこに行く?」

 俺は聞いた。

 美砂は、ちょっと考えたようだが、やはり俺と同じらしい。

「なんか食べに行こう。おなか減った」

「そうだな」

 相槌を打ちながら、俺は美砂とよく通っていた居酒屋を思い出していた。

「なあ、あの居酒屋に行ってみようか」

「えっ? あの居酒屋って・・・ 小春亭?」

 美砂も良く覚えているようだ。

 小春亭とは、大田や昔の学生仲間とよく行った居酒屋だった。

ススキノに来ると必ず顔を出していた。

当然、美砂と二人だけの時もよく通った店だ。それもスコッチバンクスに行く前には必ず寄っていた。

「うん、そこに行こうよ」

 美砂が軽く頷くと、俺と美砂は歩き出していた。

 東王ホテルを出ると、雑踏の中を押し流されるようにススキノの街を歩く。

自然と俺の左腕に美砂の右手が絡んできた。

こうやって二人寄り添い、他人には言えない関係の二人でも、気に留める奴は誰もいない。

ススキノの街の中では、ごくありふれたカップルの一つだった。

 居酒屋小春亭はススキノのはずれにある。

しばらく歩いた後、中通に入った。ここまで来ると、さすがに人通りもまばらだ。

 俺は小春亭のある会館を探していた。

なにせ三十年以上も昔の話だ。今でもその会館があるのかどうなのかさえ分からない。しかも、その会館は木造の二階建てだ。もうビルに建て替えられているんじゃないだろうか。そんなことを考えていると・・・ あった。

それは、今ではひっそりとたたずむように建っていた。

 俺は会館の前にある、入居店舗の看板を見ていた。

そのほとんどが、電気が消えている。あるいは店舗名すらなかった。

今でも営業しているのは数店舗しかないようだ。

 小春亭はこの会館の地階だ。

地階の看板を見ていると、まだ三店舗ほど営業しているようだ。その中の一つだけ電気がついている。

小春亭だった。

 俺と美砂は顔を見合わせ、フッと笑った。

さっそく会館の地下へと向かう。薄暗く狭い階段を降りていくと、相変わらず饐えた臭いが鼻を突いた。

 通路を歩くと、両側の店舗はすべて閉まっていた。だが、通路の一番奥、正面の店舗だけが明かりが灯っている。そして、玄関前にあげられた暖簾には、小春亭とあった。

 俺は暖簾をかき分け、引き戸の玄関を開けた。

「いらっしゃい!」

 懐かしい声が、厨房の奥から聞こえてきた。

「何名様ですか?」

 俺は指を二本立てた。

「お好きな席へどうぞ!」

 時間が早かったせいか、客はまだ誰もいなかった。

 俺はいつも座っていたカウンターの奥へと美砂を誘った。

この席は、一番落ち着くお気に入りの場所だった。

 厨房ではマスターとママが、まだ仕込みの最中だった。

さすがに三十年も経つと、二人とも年を召している。それこそ初老の域だ。だが、昔の面影は十分にあるし、二人とも元気なようだ。

 俺は何故か安心した。ただ、俺のことはマスターもママも、もう覚えてはいないようだ。ちょっぴりと寂しかったが、美砂と二人で通っていた店が今もある。それだけで十分だった。

 俺はマスターにビールを美砂と二人分頼んだ。そして二人で乾杯すると、俺は何を頼もうかとメニュー表を眺めていた。

 俺が通っていた頃にはなかった新しいメニューが色々と書かれている。だが、そのメニュー表の一番端に、『懐かしメニュー』というものがあった。

 読んでみると、それこそ美砂と二人で通っていた頃の懐かしいメニューばかりだった。

 俺は、当然その中から料理を頼んだ。

 まず出てきたのは、『ヒリヒリソーセージ』だ。

これはタバスコをたっぷりと絡めた超極辛のソーセージだ。それをレタスに包んでいただくのだが、それでも辛くてなかなか食べることができない代物だった。その辛さは脳天を突き破るかの如くで、その時のゆがんだ顔が面白くて二人で笑い転げて食べていたものだった。

 はたして今日はどうだろう? 俺は恐る恐るソーセージをレタスに包み口に運んだ。口の一歩手前でタバスコの強烈な匂いが鼻を突きクシャミが出る。そして、目からは涙がこぼれだした。やはり並の辛さではない。

 俺は一瞬躊躇した。それだけでも、横にいる美砂はクスクスと含み笑いをしている。ここは気合を入れて一気に食べるしかない。俺は覚悟を決めてソーセージを口に放り込んだ。

「うっ!!」瞬間だった。脳天が爆発し、辛さが一気に突き抜けて行った。

 鼻が痛み、涙が止まらない。顔がゆがんでいるのが自分でも分かるぐらいだ。

 横にいる美砂は笑いをこらえられないようだ。とうとう口に手を当ててゲラゲラと笑い出した。

 俺は水を飲み干し、涙を拭きながらなんとか一息つくと、美砂を見た。

「私は辛いの平気だもん」

 美砂はそう言うと、ヒリヒリソーセージをレタスに包み、口に入れた。

 結果は同じだった。

 俺は笑いが止まらない。美砂も辛さで苦しいんだけれども、笑いが止まらないでいる。そんな俺と美砂を見て、ママがにこやかに近づいてきた。

「佐伯君とミサちゃんじゃあないの?」

「えっ?」

 俺と美砂は二人してママを見た。

 すると、ママは続けた。

「あ~、やっぱりそうだ。

ミサちゃんはすぐに分かったの。若い頃と全然変わってないからね。

でも佐伯君・・・ 立派になったわねぇ~ 見違えちゃった」

「そうすか?」

 俺は若い頃と同じようにそう返事をすると、マスターがやってきた。

「男はな、仕事の内容で顔つきがどんどん変わるんだ。

成長している証だよ」

 そう言いながら、マスターは俺と美砂とを交互に見ている。そして続けた。

「だけど、さっきの笑い顔は若い頃とまったく一緒だな。

あれから三十年以上は経つよなぁ~。

相変わらず仲の良い二人だ」

 微笑みながらマスターがそう言うと、横にいるママが聞いてきた。

「ところであなたたち、もう一緒になったんでしょ?」

 俺は飲もうとしていたビールを一瞬吹き出しそうになった。

なんと返事したら良いのか・・・

 でも、横にいる美砂はにこやかに、そして普通に答えた。

「うん、やっと・・・ やっと一緒になれたの・・・」

 その目は何故か潤んでいるようにも俺には見えた。

そして、

「だから今日は久しぶりに飲みに行こうと思って来たの」

 するとママは頷きながら、

「人生いろいろあるからね。

長くかかっても・・・ どんなに辛いことがあっても・・・

最後が良ければそれでいいのよ。

ねっ!」

 そう言ってマスターを見た。

 マスターも軽く頷きながら、

「ま、そういうことだ。

今日は三十年ぶりだ。ゆっくりしていきなよ」

 そう言うと、二人そろって厨房へと戻って行った。

 俺は嬉しかった。嘘でも美砂の言った言葉が本当に嬉しかった。

 俺は美砂と自分のグラスにビールを注ぐと、また杯を交わし、次から次と出てくる『懐かしメニュー』を食した。

 小春亭ポテト、納豆オムレツ、カミナリ納豆、そして最後の締めに、納豆チャーハンと結局最後は納豆づくしだった。

 気が付くと、店内は客でいっぱいになっている。相変わらず若い客が多い。今も昔も繁盛しているようだ。

「そろそろ混んできたから次行こうか・・・ どこに行く?」

 俺は美砂に聞いた。

 すると美砂は、ほんのりと頬を紅く染めて答えた。

「ねえ、スコッチバンクスに行こうよ。

ここに来たら次はやっぱりスコッチバンクスでしょ?」

 美砂もスコッチバンクスは思い出に残っているようだ。

「俺もそう思って昨日ネットで検索したんだけど・・・

もう札幌にはないみたいなんだよな・・・」

 俺はそうつぶやくように言うと、美砂はビールを飲む手を止めて言った。

「えっ? それってネットでしょ? 実際に行ってみないと分からないじゃない。このお店だってあったんだから行けばきっとあるわよ」

 言われると確かにそうだ。実際に行ってみないと分からない。

「そうだな。じゃあ行ってみるか・・・」

 俺は会計を済ますと、美砂と二人で小春亭を後にしたのだった。

 

つづく

 

其の〈13〉プチクラス会

 

 翌日、俺は仕事が終わると直ぐに美砂のいる骨董屋に電話をした。

 駐車している車の中でスマホを耳に押し当てていると、呼び出し音だけが鳴り響いている。相手はなかなかでない。今直ぐにでも美砂に会いたい。そして、美砂の声を聞きたい。その気持ちだけが逸り落ち着くものではなかった。

 ひょっとしたらブックカフェにいるのかな? と思い、俺は掛け直そうとした。その瞬間、呼び出し音が止まった。

「ミサか?」

 相手を確かめもせずに聞くと、

「ジロウ?」

 と向こうも聞いてきた。甘いいつもの声だ。

 美砂の声を聞くと何故かホッとする。

 俺は一人笑みを浮かべながら話し始めた。

「今度の土曜日、休みを取れたから前の日の金曜日の夜に飲みに行こう。その方がゆっくりと会えるから。ミサは大丈夫か?」

「うん、大丈夫。どうせこのお店暇だから・・・」

「じゃあ、東王ホテルのロビーで午後七時に待ち合わせしないか?」

「うん、いいよ」

「それじゃあ金曜日の夜に・・・」

「うん、楽しみに待ってる」

 俺は通話を切ると、その手に持っているスマホに思わずチュッとした。そして、一人にやけながら家に帰って行ったのだった。

 

 玄関を開けると、夕飯の匂いが漂ってくる。煮魚? それもホッケだろうか。匂いに誘われるように居間に入ると、台所から、コトコトと包丁の音が聞こえてくる。妻は料理の最中だった。

「ただいまー」

「あ、おかえり。今、晩御飯作ってるから先にビールでも飲んでて」

 普段の生活、現実がここにある。日々変わることのない妻と二人だけの生活。

 昨日は美砂と別れ塩谷から帰ってくると、夜も遅かったせいかすでに妻は寝ていた。そして今朝は地方卸売市場から荷物が入ってくるので早朝出勤。妻が起きる前に家を出ていた。妻と顔を会わすのは、何故か久しぶりのような気がする。

 俺はいつものように着替えを済ませると、冷蔵庫からビールを取り出した。心の片隅にはやはり美砂がいる。何事もなかったかのようにソファーに座り、缶を開けようとした時、家の電話が鳴った。

「もしもし」

 妻が料理の手を休め、素早く受話器を取った。

「あ、こんばんは。主人ですか? 今、ちょうど帰ってきたところです。ちょっとお待ちください」

 妻は振り向くと、受話器の話口を右手で塞ぎ、俺に言った。

「あなた、大田さんよ」

 大田とは、中学校の同級生で、唯一俺と美砂が付き合っているのを知っていた親友だ。それに、大田から電話が来るときは、なぜかいつも家の電話だった。

彼とは今でも年に二~三回ススキノで飲むことがある。この時間に電話があるのは、いつもその誘いだった。

「よう、今、暇か?」

 電話の向こうからは、人の話し声や笑い声が聞こえる。それも複数。やはり、ススキノに出て来いという誘いのようだ。

だが、今日は一人で飲んでいたい。そう思い、断ろうとすると大田が話し始めた。

「今、みんな集まってるんだ。ちょっとうちに来ないか?

懐かしい顔ばかりだぞ」

「うち? うちってお前んちか?

懐かしい顔って誰だ?」

「中学校の時の連中だ。たまたまうちに集まってな、みんなで三十五年ぶりにクラス会開こうって話が盛り上がってるんだ。みんなお前の顔を見たいって言ってるぞ。すぐ来いや」

 そういう話なら、行かない訳にはいかない。

「わかった。飯食ったらすぐ行く」

 そう言って電話を切った。

 俺はソファーに座り直すと、ビール缶を開け、一気に飲み干した。

 美砂と会うようになって、クラス会の話も出てくる。これも何かの縁なのか・・・ そう思いながら食事を済ませると、大田の家に向かって行った。

 

 大田の家は中学校の向かいにある。歩いて10分ほどの距離だ。昔からの酒屋で、今ではコンビニも営んでいる。

 俺は中学校時代に登校した時と同じ道を歩いていた。道沿いの家並みは変わってはいたが、歩く道のりは一緒だ。

 途中の三叉路まで来ると、左側から美砂が歩いてくるのが見える。

 俺は美砂に分からないように隠れ、美砂を先に行かせた。そして後ろからゆっくりと近づき、美砂の頭を指でちょこんと突くと全速力で逃げた。

 振り返ると、美砂が怒った顔をして追いかけてくる。だが、追いつける訳がない。

 俺が先に教室で席に着き待っていると、美砂は息を切らして入ってきた。そして、俺を睨み付けながら美砂も席に着いた。かなりムッとした顔をしている。

だが、一息ついて落ち着いてくると、何故かフッと笑いながら俺を見ている。

俺も何故か微笑み返した。

 遠い過去の思い出だ。だが、今の俺には単なる思い出ではない。現実に美砂は俺の傍にいる。

 そんなことを考えていると、大田の家に着いた。

 

 

 コンビニの裏に回ると玄関がある。俺は呼び鈴を押した。

「ハーイ、どうぞ」

 大田の奥さんの声だ。

 大田とは、お互いの結婚式の友人代表をしあった仲だ。当然、奥さんとは結婚前から良く知っている。

「ヨッ! こんちは」

 俺は軽く声を掛けると、まるで自分の家のように勝手に上がって行った。

 居間に入ると、そこには懐かしい顔が五人ほど揃っている。そのほとんどが現在も中学校の校区に住んでいる連中だ。

その中の一人、唯一女子の相沢が俺の顔を見るなり口を開いた。

「アーッ! 佐伯君だ! 全然変わってないね。ちょっと頭白くなったけど!」

 そう言いながら目を見開き、俺の頭の先から足元まで舐めるように見下ろした。

「そう言うお前も全然変わってないな。なにかと泣いていた中学校の時のまんまだぞ。いくつになった?」

 思わずそう聞いてしまった。

「なにバカなこと言ってるの。みんな同い年でしょ!」

 確かにそうだ。だが、他の男子を見ていると、中には立派に頭が薄くなった奴もいるし、恰幅の良いお腹をしている奴もいる。長い年月を感じさせる再開だった。

 俺は誘われるままにソファーに腰を落とした。

 相沢は女性らしく、大田の奥さんの手伝いをしている。酒の肴の用意をしながら、俺が来たことでもう一度乾杯の音頭を取った。

「カンパーイ!」

 再度宴が始まった。プチクラス会だ。酒を酌み交わし、お互いの近況や仕事の話など。成長し巣立っていった子供たちの話など。懐かしみながら話し合う。そして、中学校時代の話に及ぶと、話し言葉までもがその頃に戻っていた。

 そんな中、大田が俺の横に座り、耳元で小声で話しかけてきた。

「そう言えばよ、高校の時に佐藤っていたの覚えているか?」

「佐藤? 佐藤雄太か?」

 思わず聞き返した。

 大田は、俺と美砂が付き合い、そして別れたことを知っている数少ない親友だ。そのせいか、俺のことを気遣い、あれ以来美砂との話題には触れないようにしていた。それが何故、急に美砂と同じ高校の佐藤のことを聞いてきたのか・・・

 大田は話続けた。

「雄太っていう名前かどうかは分からん。俺は佐藤っていう苗字しか知らんからな」

「それがどうかしたのか?」

「佐藤がカヌーをやっているってのは噂で聞いて知っていたんだ。

それが三年前の春先、尻別川で川下り中に事故死したって新聞に載っていた。

カヌーが沈して、激流に飲まれたらしい。

死因は低体温症だ」

 俺は一瞬身体が固まってしまった。何がどうなっているのか、頭の中がまったくまとまらない。

 それでもやっと言葉が出た。

「ちょ、ちょっとまてよ。佐藤ならこの前ニセコで会ったぞ。

たまたま寄ったレストランの併設されたカヌー工房でカヌーを造っていた。

人違いじゃないのか?」

 大田は、まじまじと俺の顔を見ながら不可思議そうに話した。

「エッ? そうなのか?

じゃあ新聞に載っていたのは別人か・・・

佐藤なんて苗字はどこにでもいるからな・・・」

 そう自分に言い聞かせているようだ。

 俺は大田に言った。

「死因は低体温症だろ? 佐藤雄太なら考えられないぞ。あいつならカヌーに乗るときには、必ずドライスーツを着用しているからな。

それも春先なら、なおのことそうだ」

 大田は納得したように、

「それならいいんだ・・・」

 そう言うと、何故かホッとした顔になった。

 俺も安心し、ソファーに深く座り直すと大田に聞いた。

「急にどうしたんだ?」

 すると大田は、天井を見上げながら呟くように話し始めた。

「最近な、取引先の関係者からくる喪中葉書が、本人死亡が多いんだ。

それで、とうとう身近な人間にも亡くなる奴が出てきたかなって思ってよ。

俺たちも知らず知らずのうちにそんな歳になってきたなって・・・

ま、あまり気にするな」

 言われると確かにそうだ。俺のところに来る取引先や知り合いからの喪中葉書も、最近は本人死亡が多くなってきた。

 そんな歳になったんだな。と思いながら、俺も一瞬天井を見上げた。

そして、佐藤の話が出てきたところで、美砂と会っているというのを、大田にだけは話しておこうと思った。

「大田、実はな・・・」

 話そうとした途中、向かいに座っている相沢が話に割って入ってきた。

「ちょっと、そこの二人! さっきからなにこそこそ二人だけで話してるのよ! またよからぬ相談してるんでしょ。本当にしょうもないんだから相変わらず・・・」

 どうも女子の相沢から見ると、俺と大田のイメージは中学校の時のままのようだ。

「べ、別に変な相談なんかしてないって・・・

ただ、最近、喪中葉書が・・・」

 大田が弁解がましく言おうとしたが、その腰を折るように、また途中で相沢が話し始めた。

「そんなことより、大田君さあ。幹事なんだからちゃんとクラス会名簿作ってよ。大丈夫?」

 俺が来る前に、クラス会の幹事は大田に決まっていたようだ。

 大田は自信たっぷりに答えた。

「ああ、大丈夫だ。クラスの三分の二は連絡がついている。残りの三分の一は実家に連絡するか、仲の良かった奴に連絡すれば所在は分かるよ」

 さすがに長年ここで商売をし、コンビニをやっているだけあって地域の情報には詳しいようだ。

 一同安心し、楽しい時間はあっという間に過ぎていった。

 今度はクラス会で会おう。そう皆で語り合い、大田の家を後にしたのだった。

 

 帰り道、美砂と会っているということを、とうとう大田に話すことはできなかった。だが、それはそれで良い。俺は中学校のクラス会が過去に一度だけあったのを思い出していた。

 それは今から三十五年前のことだった。高校を卒業し、大学の二年生の夏休みだったと思う。

 場所はススキノの居酒屋。美砂と二人で会場に入って行った。

 当然、皆驚いて俺たちを見ていた。

 当時担任だった岩本先生も、

「お前たち、付き合っているのか?

今、一緒に入ってきたけどよ・・・」

 と驚いた顔をして聞いてきたぐらいだ。

 だが、当然俺は否定した。

「たまたま入口で一緒になっただけです」

 と。

 この頃から、俺と美砂が付き合っているのを知っているのは、中学校の同級生では親友の大田だけだった。

 俺はまた同じことをして皆を驚かしてやろう。そう思っていた。

それに、今度は大田もまったく知らない。それこそ大田も目をひん剝くほど驚くだろう。その時の大田の表情を想像するだけで笑いが止まらなくなる。

俺は一人歩きながら含み笑いをし、家路についていた。

ただ、大田の言った佐藤のことが、何故か頭の片隅で静かに渦を巻くようにうごめいていたのだった。

 

つづく

 

其の〈12〉帰路

 

 どのくらいの時間がたったのだろう。美砂はなかなか戻らなかった。

時間だけが刻々と流れていく。それは時計の秒針が一秒一秒刻むごとに俺の心臓を叩き打つのと同じだった。

 上空を見上げると、ジョナサンがゆったりと舞っている。何事もない証のようだ。だが、俺にとっては耐えられない時間の流れだった。

 俺はバイクに跨り美砂を待った。ヘルメットを抱え悶々としていると、新月の周りに霞がかかったように雲が流れた。そして、またひんやりとした風が頬を撫でた時、ジョナサンが舞い降りてきた。そしてその翼に守られるように美砂の影がゆっくりと工房から現れたのだった。

 工房の明かりが逆光となっているせいか、美砂の表情は分からない。だが、うつむき加減に歩いてくるのはシルエットではっきりと読みとれた。

「どうした?」

 俺は聞いた。

「う、う、うん・・・」

 美砂は首を横に振るだけだった。

その表情は暗い。

 俺は改めて聞いてみた。

「何かあったのか?」

 うつむきながら美砂はゆっくりと口を開いた。

「佐藤君ね、手が離せないから佐伯によろしくって言っていた」

 そして、暫しの沈黙の後、

「・・・それにね・・・ そろそろ帰らなくちゃならないんだって・・・」

 それは今にも消え入りそうな声だった。

「どこに? 札幌にか?」

 聞いたが、美砂は答えなかった。ただ、フッと漏らした笑みが、何故か悲しい笑顔だった。

 俺は美砂をバイクに乗せると、直ぐにそこを発った。

サイドミラー越しにカヌー工房の照明が消えるのが分かったが、人が出てくる気配はまったくなかった。

 一体彼らはどこに行ったのか・・・ いや、どこに帰って行ったのか・・・

この時は、別に気にもしていなかった。

 

 

 道道に出て、尻別川を渡ると、すでに新月は山の向こうに隠れ、夜空には満天の星が煌めいていた。

 すれ違う車はほとんどない。綺麗な星空の下、俺はバイクを走らせた。

 横をジョナサンが飛んでいる。そしてゆっくりと俺と美砂をかばうように頭上を飛び始めた時、一筋の星が流れた。

その星は、なぜか天空に向かって昇って行くように感じた。

 見上げると、ジョナサンはゆっくりと上昇を始めた。まるで何事もなかったかのように飛んでいる。

だが、俺の腰に巻きついている美砂の両腕にグイッと力が入ると、抱きつくように身体を押し付けてきた。

そして、つぶやくような言葉がエンジン音の向こうからかすかに聞こえてきた。

「・・・離れたくない。このままずっと一緒にいたい・・・」

 

 国道5号線に出ると左折し、俺は塩谷を目指した。

さすがに行き交う車は多い。流れに乗ってバイクを走らせる。

 倶知安町を抜け、仁木町が近づくと塩谷まで一時間とかからない。

相変わらず美砂は俺にしがみつくように乗っている。そして時々、頬をすり寄せているのが背中で感じる。

 俺はもっと美砂と一緒にいたい。今日というこの日をこのまま終わらせたくはない。そう思っていた。美砂も同じだろう。

 その時、車の流れるスピードが落ちた。赤信号のようだ。

 停車すると、信号機の横にモーテルの看板があった。交差点を左折し、100メートル先とある。今風にいうとラブホのようだ。

 俺は一瞬躊躇した。だが、この感情は抑えようがない。まだまだ美砂と一緒にいたい。そして、美砂と一つになりたい。その強い思いは全身の血を熱くし、背中に押し付けられている美砂のふくよかな胸が、それを助長していた。

 気が付くと、俺の左手親指はウインカーのスイッチに伸びていた。

何故か美砂に悟られないようにそっと、そしてゆっくりと伸びている。

 前方の信号が赤から青に変わろうとしたその瞬間、俺はそのスイッチを左に押し倒そうとした。その時、背後から強烈な羽音が聞こえてきた。

 俺は一瞬何が起こったのかまったく分からなかった。

だが、その羽音は鋭く俺の頭を蹴ると、そのまま舞い上がって行ったのだった。

『わかりましたよジョナサン。美砂はちゃんと塩谷に送り届けます』

 見上げながらそう心の中でつぶやくと、俺は塩谷に向けてバイクを発進させたのだった。

 

 余市町を抜けると、国道5号線は海岸沿いを走っている。磯の香りが何故か懐かしく感じる。塩谷まではもうすぐだ。

 遠く沖合にはイカ釣り漁船の漁火が灯っている。それは、満天に輝く星々をそのまま海全体に散りばめたようで、水平線の境さえも分からないほどだった。

 俺は走り続けた。美砂は相変わらず俺にしがみつくように乗っている。それも俺の背中に顔をうずめながら。だが、俺にとっては、美砂を抱きながらバイクを走らせているように感じていた。

そう、本当に大事な、自分にとって一番大事な人を抱きかかえながら・・・

 

 塩谷トンネルを抜けるともうすぐだ。今日という日も終わろうとしている。

 俺は国道を左折した。あと数分、いや数秒。惜しむようにゆっくりとバイクを走らせる。すると見えてきた。例の骨董屋がひっそりとたたずんでいる。

 骨董屋の前でバイクを止めると、スタンドを降ろし、俺はヘルメットを脱いだ。

「ミサ、着いたぞ」

 振り返ると、美砂は相変わらず俺の背中に顔をうずめたままだった。

「ミサ・・・」

 もう一度、声を掛けた。一瞬、寝ているのかな? と思ったが、ゆっくりと身体を起こし、ヘルメットを脱ぐと、何故か爽やかな顔をしている。

そして、笑みを浮かべながら上空を見上げると、ジョナサンが大きく弧を描きながら星空に吸い込まれるように舞い上がって行った。

 それを見届けると、美砂はバイクを降りた。

 俺もバイクを降りると、美砂の両腕が自然と俺の首に巻きついてきた。

「今日はありがとう。楽しかった」

 耳元でささやくように甘く艶っぽい声だった。

 俺は思わず美砂を抱きしめた。

「今度はススキノで会おう」

 そう言って美砂の額に軽くチュッとした。これくらいはジョナサンも許してくれるだろう。

 美砂は軽く頷く。

「うん」

 上空を見上げると、ジョナサンはいなかった。

 俺はバイクを骨董屋の奥に仕舞い込むと、ヘルメットを元の棚に置き車に乗り込んだ。

窓を開けると、美砂は玄関前に立っている。

「明日、電話するから!」

 声を掛けると、美砂は軽く右手を振り、笑みを浮かべながら頷いた。

 俺は国道までの一本道をユルユルと車を滑らせた。

バックミラーには、美砂が道の真ん中でこちらを見送っているのが見える。

国道を左折する時、俺はブレーキを軽く四回踏んだ。そう、『ダ・イ・ス・キ』のサインだ。

 美砂が両手を振る姿が、バックミラーにはっきりと映っていた。

 

つづく

 

其の〈11〉ニセコ物語

 

 

 空中回廊のような陸橋を何ヶ所か通り抜けた。まるで空を飛ぶような感覚に陥りながら峠を下って行く。目線は遠くに浮かぶ雲と同じだ。

 横を飛ぶジョナサンは空気を切り裂くように滑空している。まるでバイクと競争しているかのようだ。ほとんど羽ばたくことはない。カモメ独特の飛び方だ。いや、特別の飛行術を会得しているジョナサン特有の飛び方か。

 そう思いながら神恵内村に出た。

 ここからは、積丹半島を一周してきた国道229号線に再び合流すると、岩内町に向けて走る。

 海岸沿いを走る国道は綺麗に整備されている。三十年前とは大違いだ。

これも泊村にできた原子力発電所のお陰か。

 陽がだいぶ西に傾いてきた。遠く泊村の突端には、ドーム状の原発が見える。

 泊村に近づくと、国道の脇道に往時を偲ぶニシン御殿があった。それはがっしりとした木造二階建てで、今では中々手に入らない極太の無垢の木材で建てられていた。

 そして、この日本海にもニシンが大量に群来(くき)し、海全体を放精した白子で乳白色に染めたのであろう。その時と同じように海面は陽の光りを浴び、煌いている。

 俺はバイクを走らせた。

 美砂も何も言わず海を見ている。

 今の二人に会話は必要ない。

 そう、二人だけで一緒に居れる。それだけで俺には十分だった。

 

 岩内町に入ると左折し、ニセコのパノラマラインを目指した。

高度が上がるにつれ、眼下に今通って来た岩内平野が広がってくる。

森の香りが漂う中、俺はワインディングロードを駆け登った。だが、トーマル峠のようなコーナーを攻めるような走りはしなかった。

あくまでゆっくりと、いや、時間を惜しむように俺はゆったりとバイクを走らせた。

 少しでも長く美砂と一緒に居たい。ただ、それだけだった。

 

 

 パノラマラインを走っていると、遠くニセコ連峰が傾いた陽に映しだされていた。薄っすらと霞が掛かり、その横をジョナサンが飛んでいる。

 こんな山の中をカモメが飛ぶ。それを見た人間はどう思うだろうか。だが、今の俺には極当たり前。まったく違和感というものはなかった。いや、それ以上に親近感さえ抱いていた。

 そのジョナサンが、上空を滑空するように旋回し始めると、傾く翼短が西陽を浴び、キラリと光ったように見えた。

その時だった。俺のスマホのバイブが鳴った。

 俺は湿地帯の見える駐車場にバイクを止めると、すぐにスマホを取り出した。

 妻からのラインだった。

『帰りは何時? ご飯は?』

 返事に戸惑っていると、美砂が覗き込むように俺の顔を眺めた。

「奥さんから?」

 軽く頷く。

「もうちょっと一緒にいたい」

 美砂は哀願するように俺を見つめた。

 三十年前と何も変わっていないその目は、思わず抱きしめたくなるほど愛らしかった。

 そしてその目は、俺に返信を打たせた。

『帰りは遅くなる。飯は食べてく』

 ラインの内容を見なくても、美砂は理解したようだ。

フッと笑みがこぼれている。

 俺はバイクに跨ると、直ぐに美砂も後ろに乗った。

「飯でも食いに行こう。どこに行く?」

 肩越しに聞くと、美砂は答えた。

「ねぇ~、高校の時の友達で佐藤君っていたの覚えてる? 佐藤雄太」

「佐藤? 佐藤雄太? あ~、あいつか・・・」

 彼は美砂と同じ高校の同級生で俺と美砂が付き合っているのを知っていた数少ない一人だった。

しかも、俺のような長髪ではなく、あの時代としては珍しく丸刈りだったので良く記憶に残っていたのだった。

「佐藤がどうかしたのか?」

「佐藤君ね、ニセコでレストランやってるの。ニセコ大橋の下。それにカヌー工房も併設してるのよ」

「カヌー・・・!?」

 俺は思わず聞き返した。

 美砂はニッと笑うと、

「それもウッドの手造りカヌーよ!!」

 何故か誇らしげだった。

そして、見透かしたように、

「ジロウも興味あるでしょう。手造りカヌー・・・」

 どうやら俺が十年以上も前に、ウッドのカヌーを自作して乗っていたのを知っているようだった。

「よし、じゃあそこに行ってみよう。久しぶりに佐藤の顔も見たいし」

 俺はバイクのエンジンを回すと、佐藤のいるニセコ大橋に向かったのだった。

 

 パノラマラインを走り続け、ニセコ連峰を抜けると、次第に温泉特有の硫黄の臭いが漂ってきた。

この辺りは温泉が豊富で、五色温泉などの温泉宿はもちろんのこと、自然湧出している温泉が大きな沼を作り、川となって流れ出ている。

温泉の臭いがするのは当たり前だった。

 俺はこのまま走り続け、昆布温泉を左に折れると、尻別川に向かった。

 山を下るにつれ、道路脇には洒落たペンションが立ち並んでいる。

思わず美砂と二人で入りたくなるほど魅力的だった。

 ペンション街を抜けると、道の両脇に広がる丘陵地帯にはのどかな田園風景が広がっている。

 トラクターが走り、牧草ロールを作っている隣の畑では、そろそろ終了期になるアスパラの収穫の真っ最中だ。

 俺は畑の匂いを嗅ぎながら、いや、草原の香りの中をバイクを走らせた。

 

 道路が直線になると、その先には尻別川に架かる黄色いアーチ型のニセコ大橋が見えてきた。

 橋の手前で美砂が、「そこを左」と言う。

俺は左折し、脇道に入った。

道は曲がりながら下って尻別川に向かっているようだ。

 50メートルほど走ると、今度は、「右」と言う。

その道は細い砂利道だった。俺は美砂に言われるままにゆっくりとバイクを走らせた。前方には、空に架かるように大きなニセコ大橋が森の向こうに見える。そして、道の両側にある民家では、競うように花を咲かせていた。

花の名前など分からない俺でも、色とりどりの花には目を奪われそうだ。

 100メートルほど走ったろうか、そのレストランは森の中の大きな橋桁の傍にひっそりとあった。

 

 

 バイクを降りると、俺は改めてそのレストランを見上げた。

それは古い倉庫を改築したものだろうか、白樺に囲まれたかなり大きい木造三角屋根の二階建てだった。

一階がカヌー工房、そして二階がレストランとなっている。

 俺は美砂に誘われるままに一階のカヌー工房に向かった。

入口は建物の裏側にあるようだ。

 裏に回ると、深い森に向かって開放的に開かれたカヌー工房があった。

中では数名の男たちがカヌーを造っている。モールド(型枠)にストリップ材(細い板)を貼っている最中だった。

 懐かしい気持ちで眺めていると、カヌー工房の看板が目に留まった。

太い枝を斜めに輪切りにした板が壁にかかっている。

そこには、太い墨字で、

『ニセコ物語』

そう書かれていた。

 

 

 骨董屋と同じか、また面白い名前を付けたものだ。

そう思いながら看板を眺めていると、奥の方から声がした。

「よう、よく来たな」

 佐藤だった。

相変わらず丸刈りで年相応に白いものが目立つが、お茶目な目は昔と何も変わってはいなかった。

「佐伯、久しぶりだな。今日はゆっくりしていけよ。

カヌーも造ったことあるんだろ? 懐かしいだろう」

 どこで聞いたのか、佐藤も俺がカヌーを造っていたのを知っているようだった。

「それにしてもお前らはいつも二人一緒だな。

それもお揃いのジージャンを着てか。

相変わらず仲良いんだな」

 佐藤は茶目っ気な目をしてさらに聞いてきた。

「ところでお前ら結婚したのか?」

 この質問には正直返答に困った。

何と答えたらいいのか。

正直に、『俺は別の女と結婚した』とでも言えばいいのか。

戸惑っていると美砂が答えた。

「う、う、うん、ま~だ」

 首を横に振りながら、何故か笑っている。

それに対して、俺は何も口から出てこなかった。

否定することもできない。いや、それ以上に何故か美砂が、「ま~だ」と言った言葉が嬉しかった。

 俺の心の奥底に将来的なものが、いや、不思議なものが芽生え始めているのが俺自身強く感じていたのだった。

 

 「飯、食ったか?」

 佐藤の一言に、ふと、我に返った。

「いや、まだだ。腹が減ったからな。美砂がここで佐藤がレストランをやっているというので来たんだ」

 そう言うと、佐藤はフッと笑いながら、外階段を指しながら言った。

「レストランは二階だ。その階段を上がるといい。

俺もすぐに行く。ちょうど今日は客は誰もいない。

平日のせいもあるけど、ここはわかりづらいからな」

 佐藤に言われるままに、俺と美砂は外階段を上がった。

 格子状のガラス戸を開けると、外からは想像できない店内だった。

壁には漆喰が塗られ、淡い白熱球のスタンドが、その落ち着いた白い壁を照らしていた。

 床は当然板の間。歩くたびにきしみ音がでる。だが、不快な音ではない。むしろ、不思議な安息感というものを醸し出していた。

 俺は美砂を窓際のテーブルに誘った。

すでに外は陽が陰り、ニセコの山が紅く染まっている。

 テーブルに着くと、テーブルそのものも、そして椅子も見るからに手作り品だった。

 店内を見渡しても、同じテーブルや椅子は二つとない。間伐材や廃材を利用したのだろう。佐藤の器用さが手に取るほど良く分かった。

「何にする?」

 厨房の奥から、佐藤が水とメニューを持ってやってきた。

 一応、メニューに目を通したが、最初から食べたいものは決まっていた。

「ラムステーキ、俺はライス大盛り。美砂は?」

「同じく。ライスは普通」

 そう言ってメニューを閉じた。

 俺は佐藤がメニューを片付ける間に聞いてみた。

「この店は、お前が自分で作ったのか?」

 佐藤はニヤッと笑うと、

「そうだ。ほとんど自分でやった。難しいところはプロに頼んだけどな」

 そう言って厨房に戻って行った。

 窓の外に目をやると、陽は落ち、白樺の向こうに山の稜線が淡いシルエットとなって夜空に浮かんでいる。

綺麗だ。塩谷の夕間暮れを見慣れている俺でも久しぶりにそう思った。

 美砂も同じように窓の外を見ている。やはり見とれているのだろう。そう思っていると、おもむろにテーブルに目を伏せ、ゆっくりと口を開いた。

「ごめんね」

「ん? 何がだ?」

「なんか・・・ 奥さんに悪くて・・・」

 正直言って返答に困った。こういう時は一体何と言ったら良いのか・・・

「別に気にしなくていい。俺といる時は二度とそんなことは言わないでくれ。それに・・・」

 何故か自然に出た言葉だが、この先は今は言えなかった。

 気まずい雰囲気が流れたが、フッと笑みをこぼしたのは美砂だった。

「ありがとう。いつも優しいね」

 そう言って目を上げた時、厨房の方からラムステーキ特有の良い匂いが漂ってきた。

 俺も笑みを返すと、ほどなく佐藤がラムステーキをカートに載せ運んできた。

焼けた鉄板の上で、付け合せのジャガイモとアスパラと一緒にジュージューと音を立てている。かなりのボリュームだ。

「はい、おまちどう。熱いからな」

 そう言いながら、佐藤はテーブルに料理を並べた。もちろん、地場の野菜を使ったサラダボールもある。

そして最後に、

「こいつはサービス。今日釣ったばかりの山女魚だ」

 そう言って山女魚の塩焼きを置いた。

見事な山女魚だった。

釣りたくてもなかなか釣れないし、食べたくてもそう簡単に食べられない代物だった。

「お前が釣ったのか?」

 思わず聞くと、佐藤はニヤッと笑い、

「ああ、そうだ。尻別川に秘密のポイントがあるんだ。

俺でも滅多に釣れない代物だ。お前ら今日はついてるな。

すべて地場物だぞ!

あとは二人でゆっくりやってくれ。

俺は工房に戻ってるから。

金はレジのところに置いといてくれればいい」

 そう言って厨房の奥に消えていった。

 

 店内には、俺と美砂の二人だけ。落ち着いたBGMが流れる中、食事を楽しんでいた。

 佐藤の料理の腕は確かだった。

絶妙な焼き加減のラムステーキとソース。サラダにかかっているオリジナルドレッシング。そして山女魚。そのどれもが素材の味を最大限に生かしていた。

「美味しいね。バイクでなかったらワインも飲めたのに・・・」

 美砂がラムを頬張りながら言った。

「そうだな。ニセコはワインも旨いから・・・」

 俺は山女魚をつまみながら続けた。

「そうだ、今度ススキノに飲みに行かないか?

これからもずっと会っていたいし・・・」

 素直に出た言葉だったが、美砂は一瞬躊躇する顔を見せた。しかし、直ぐに笑顔を取り戻すと、

「うん、私もずっと会っていたい」

 そう言ってサラダに手を伸ばしていた。

 

 食事が終わる頃、俺は改めて店内を見渡していた。

『本当に佐藤は器用な男だ。カヌーもしっかりと造っていたし・・・』

 そう思っていた時、不思議なことに気がついた。

『そういえば、カヌーを造っていた連中、若い奴はいなかった。ほとんどが年配者だ。定年後の趣味として始めたのか? いや、それにしても・・・』

 そう、気になっていたのは、日焼けをしている者が誰一人としていなかったことだ。

 普通、カヌーに限らず、アウトドアに興味のあるものは総じて日焼けしているものだ。それは常にフィールドに出ているのだから当然のこと。

だが、そんな奴は一人もいなかった。

 佐藤にしてもそうだ。確かに身体はがっしりとしていたが、日焼けは全くしていない。それどころか、青白くさえ見えた。

『いったいどういうことだ?』

 そう思い、窓の外のライトアップされた白樺を見た時、スーッとジョナサンが横切ったのが垣間見えた。

 そして・・・ 店内のBGMに聞き覚えのある曲が流れてきた。

『サマータイム』

 サマータイムは色々なアーティストがカバーしている。

だが、今この曲を歌っているのは・・・

ゾンビーズだった。

 俺は一瞬寒気がした。

だが、美砂はまったく気にしていないようだ。

俺の顔を見て、逆にキョトンとしている。

「どうかしたの?」

 美砂が聞いてきた。

「この曲・・・」

 そう言って俺が人差し指で上を指すと、納得するように言った。

「ああ、この曲ね。サマータイム。ジロウも知っているでしょう?」

 俺はただ頷いていると、美砂は続けた。

「佐藤君が好きでね、高校の時からいつも聴いていた。

文化祭の時なんかね、ギター弾いて歌ったりもしていたのよ」

 何故か自慢げな美砂だった。

 俺が気にしていたものは稀有なものだったようだ。だが、よりによってゾンビーズのカバーだ。やはり気になる。

 その時、窓の外をまたジョナサンが横切った。そして、ゆっくりと舞い上がると、天空にうっすらと輝いている細い糸のような新月の周りを飛び始めたのだった。

 だめだ、やはり俺には耐えられない。ジョナサンを見ていると、まるで俺に何かのメッセージを送っているかのようだった。

 俺は、今直ぐにでもここを立ち去りたかった。どうにも落ち着かない。

「そろそろ行こう」

 そう言いながら、おもむろに腰を上げると美砂は戸惑った顔をしている。だが、おれは構わず立ち上がると、レジの横に金を置いた。

「どうしたの?」

 走り寄ってきた美砂が覗き込むように言った。

「なんだか落ち着かないんだ」

 つぶやくように言うと、美砂はうつむき加減に言った。

「ごめんね。私がここに誘ったから・・・」

 俺はあわてて美砂の肩を抱き寄せた。

「ごめん。あやまるのはこっちだ。せっかく美砂が誘ってくれたのに・・・

今日の俺は、なにかおかしい。すぐにここを出よう」

 そう言うと、俺は美砂の肩を抱きながら店を出た。

 階段を下りると、ジョナサンがスーッと舞い降りてきた。

その時、「サーッ」という白樺の葉の擦れる音と共に、何故かひんやりとした風が頬を過ったのを感じた。

「帰る前に佐藤君にあいさつしてくる」

 そう言ってカヌー工房に行こうとした美砂を、俺は慌てて止めた。

やめろ!!

 叫び声に近かった。

だが、美砂は微笑み返すように振り返ると、

「大丈夫、ほら、ジョナサンもいるから」

 上空を指さしながらそう言うと、足早にカヌー工房に消えて行ったのだった。

 

 

つづく

 

其の〈10〉積丹半島 (トーマル峠)

 

 ドライブインを後にすると、すぐに左折しトーマル峠に向かった。

しばらくは平坦な道が続く古平町の住宅街を走る。かつてはニシン漁で栄えたこの町も、過疎化が進んでいるのか、老人の姿が多い。

 住宅街を抜け、人の気配が消えると、徐々に緑が増してきた。

上空には相変わらず例のカモメが飛んでいる。

レストランでカモメのことを聞きそびれたが、この先聞く機会はあるだろう。

そう思いながら走っていると、左手にチェーンの着脱場があった。

明らかにこの先、峠があることを示している。

 道路が緩い上り勾配になってくると、周りは深い森に覆われだした。

当丸山を登っているのを肌で感じる。そして、道路の所々に北海道特有の看板が立ててあった。

そう、例のヒグマが襲い掛かってくる絵が描かれた、『熊出没注意!!』ってやつだ。

確かに積丹半島は昔から熊が多いので有名だ。だが、北海道に住む者にとっては、あまりにも身近すぎてさして気になるものではなかった。

 いよいよ勾配がきつくなってくると、トーマル峠特有のつづら折の峠道が始まった。

 俺はチラッと後ろを振り返った。美砂は、「了解」と言うようにフッと笑っている。

俺はバイクを押さえ易いように、腰の位置を若干後ろに下げた。腰に巻きついている美砂の両腕に力が入るのを感じる。と同時に、美砂の身体が俺の背中に密着した。美砂もやる気のようだ。

 最初の左コーナーが迫ってくる。

俺はブレーキングと同時にギヤを落とした。エンジンが一瞬甲高い声を上げ、バイクを左に倒す。

リーンイン。

身体をバイクよりも左に傾けると、美砂もタイミングを合わせるようにコーナーの内側に身体を倒した。

みるみると左の眼前にアスファルトの路面が迫ってくる。

左のサイドステップが路面を擦り、「ガリガリ」と音を出しながら火花を飛ばしている。だが、不思議と恐怖心はない。

美砂も俺の左肩越しにコーナーの出口を見据えている。

三十年前と同じだ。二人の息はピタリと合っている。

 左コーナーを立ち上がると、次の右コーナーが見えてきた。

同じように右にリーンイン。

今度は右のサイドステップから火花を飛ばしながらコーナーを抜けた。

 俺が若い頃、バイクに乗っていた時は、今の時代のようにハングオンという言葉もなかったし、そんな乗り方もなかった。それにハングオンをするようなバイクでもない。それこそ今風に言えば、教科書的な乗り方だった。ただ、どれだけサイドステップが擦れているか、それがある種バイク野朗の自慢であり、どれだけ鋭くコーナーを突っ込んでいったのかという証だった。

そう、今の俺と美砂のように・・・

 

 

 幾度となく右に左にと、バイクをバンクさせながらコーナーリングを繰り返していると、最初の覆道が見えてきた。

ここから先は、冬期間でも通年通行が可能なように数多くの覆道が設置されている。

 俺はスロットルを絞ってスピードを落とした。

最初の覆道を抜け、次の覆道との間に架けられた陸橋からは、遠く山並みが見える。それは薄っすらと霞が掛かり、なんとも気分が落ち着いた。

先ほどまでの気を張り詰めたコーナーリングをした後ならなおさらだ。

 美砂も同じようだ。両腕の力を抜き、上体を起こして眺めている。

 三十年ぶりの眺めだった。

「綺麗だね」

 ポツッと一言美砂が言った。

「ああ、なんにも変わっちゃいない」

 そう自分で言った通り、今の俺は美砂と二人で過ごした時の自分そのものだった。

 

 

 何ヶ所かの覆道を抜けると、左側に山の中に入る小さな脇道を見つけた。

その脇道には雑草が生い茂り、滅多に車の出入はないようだった。

 俺はちょっと休みたかったので、迷わずその脇道にバイクを進めた。

入口に例の看板が立っていたが、別に気にするほどのものでもない。

そう、『熊出没注意!!』ってやつだ。

 美砂も気にしていないようだ。

同じように休みたいのだろう。何も言わず、黙って後ろに乗っている。

 脇道は車が一台やっと通れるほどの幅しかない。両側を鬱蒼とした笹薮が生い茂り、頭上にはハルニレやオヒョウニレの広葉樹が枝葉を広げ陽の光りを遮っていた。

まるで樹のトンネルだ。

 俺は、その樹のトンネルをくぐるようにゆっくりとその脇道を進んだ。

 優しい風が吹いてくる。その風に乗って樹のトンネルの奥から森の香りが運ばれてくる。優しい香り。その香りに誘われるように俺はバイクを進めた。

 どれぐらい進んだろう。長く感じたが、たぶん100メートルぐらいだ。突然目の前が開けた。

 そこはテニスコートの半分ほどの円い広場になっていて、中心には大きな岩があった。周りを笹薮で囲まれ、大きな楡の木が枝葉を広げている。そして広場の真上だけがぽっかりと穴が開くように青空が広がっていた。

 俺はバイクを止めると、すぐにエンジンを切った。

 一瞬の静粛が訪れる。聞こえるものは何もない。

 ゆっくりとバイクを降りるとヘルメットを脱いだ。すると、最初に聞こえてきたのは風の声だった。

 笹薮が静に揺れる音。

 楡の枝葉が擦れる音。

 上空からは風に揺らいだ木漏れ日が、サラサラと降ってくる。そして、遠くからは鳥のさえずりが風に乗って聞こえてきた。

 美砂も横に立ち並び、耳を澄ましている。

 なんとも心地良い空間、そして時間だった。

 それこそ、この世に今いるのは俺と美砂の二人きりだ。そう感じるほどの空間であり時間だった。

 俺は右手を美砂の肩に回した。

 美砂はゆっくりとこちらを見た。長い黒髪が時折風にそよいでいる。そして、俺の背中に両腕を回した。

 思わず俺は美砂を抱きしめた。美砂のふくよかな胸が俺の心臓に強く感じる。自分でも驚くほどに自然だ。

 美砂は目を閉じ、ゆっくりと顔を上げた。

艶やかな唇が愛らしい。そして、ほのかに香るシャンプーの匂い。懐かしさが込み上げてくる。

 俺はゆっくりと唇を重ねようとした。もう自制心は必要ない。やっと、という思いだ。

 するとその時、突然上空から鋭い羽音が聞こえてきた。

 瞬間、美砂は目を見開くと、俺を両腕で突き放した。いったい何が起こったのか、俺にはまったく分からない。ただ、その羽音はゆっくりと降りてくる。そして、広場の中心にある岩の上で止まった。

「どうしたんだ?」

 そう言いながら、俺はまた美砂を抱き寄せようとした。しかし、また突き放された。今度はゆっくりと。

そして美砂は言った。岩の方を見ながら。

「彼が見ている」

「彼が?・・・」

 振り返ると、そこには例のカモメが止まっていた。

 ただ、こちらを見ているわけではない。逆に背を向け、笹藪のほうを見ている。

「彼って、あのカモメのことか?」

 美砂は何も言わずに、ただ、うつむき加減に頷いている。

 何故、美砂はあのカモメのことを『彼』というのか。いったいあのカモメは?

 そう思った時、美砂が口を開いた。

「彼はジョナサンって言うの」

「ジョナサン?」

「そう、ジョナサン・リヴィングストン」

「ジョナサン・リヴィングストン?」

 聞いたことのある名前だった。

 そう、学生時代に読んだ、リチャード・バック著 『かもめのジョナサン』の主人公の名だ。

 本嫌いの俺だったが、この本だけは写真が多くページ数が少ないので、一気に読んだ記憶がある。

 それはジョナサンというカモメが、他のカモメは餌を漁る日々だけだったのに対し、飛ぶことを追求し日々飛行術を磨いていた。やがて彼は天国へ行き更なる飛行術を会得し、真実を見出した後、地上へ戻って来る。確かそんな内容だったと思う。

 その本の主人公と同じ名を持つカモメ、ジョナサンが今、目の前にいた。

「彼は私を守ってくれてるの」

 ジョナサンの背中を見つめながら美砂が唐突に言った。

「守ってくれる?」

「そう、塩谷に来てから、あの骨董屋を出る時には、いつも傍にいてくれる。

だから勝手に名前を付けちゃった。ジョナサンって。

ほら、ジロウが学生の時にくれた本があったでしょう。

『かもめのジョナサン』ってやつ。あのカモメ」

 そうだった。『かもめのジョナサン』は、俺が読んだ後、美砂にやったんだった。

 美砂はなぜか優しい目でジョナサンを見ている。そして続けた。

「彼と一緒にいるとね、何となく彼の言っていることが分かるようになってきたの」

「言葉が通じるのか?」

 問い掛けると、美砂は首を横に振りながら答えた。

「う、う、うん。会話ができるとか、そう言うんじゃないの。

だけど、一緒にいるとなんとなく分かるの。

ほら、七夕飾の短冊。あれも彼が、『また、 逢えますように』って、書いてみたらって教えてくれたの。

そしたら、ちゃんとジロウと逢えた。

だから・・・ 彼が傍にいると、なんだか恥ずかしくって・・・

全部見られているような気がする・・・」

 そう美砂はジョナサンを見ながら、まるで子どものように無邪気っぽく笑っていた。

 確かにそうかもしれない。あのトンネルを通った時、ジョナサンが来てくれなかったらいったいどうなっていただろう。

そう思うとぞっとする。やはり、ジョナサンは美砂の守り神か・・・

 俺はジョナサンを見ながら、そう思った時、不思議と生ぬるい風が通り過ぎた。

その風は、一瞬頬にまとわりつくと、ジョナサンの尾羽を揺らして向こう側の笹薮に流れて行った。

そして間を置くと、笹藪の奥がザワザワと不規則な音を出しながら揺れ始めたのだった。

 何かいる。その気配をはっきりと感じる。

 俺は背中が凍るほどの寒気を感じた。この脇道に入る時に見た立て看板を思い出したのだ。

そう、『熊出没注意!!』ってやつだ。

 今、ここでヒグマに襲われたら逃げ場はない。

 俺は反射的に美砂を背後に隠した。

 美砂は俺の両肩を鷲掴みにして、肩越しに笹薮を見ている。

「怖い・・・ な、何・・・ あれ・・・」

 美砂の両手が震えているのが分かる。

だが、これ以上為す術がない。笹藪の揺れはじわじわと近づいてくる。

今にも飛び出してきそうだ。

 俺は美砂を背後に抱えたまま、じりじりとバイクに近寄った。

 このままバイクに飛び乗るか?

 そう思ったが、エンジンを回している間に笹薮から飛び出されたら間に合わない。ではどうする?

 考え抜いていると、ジョナサンがゆっくりと両翼を広げ、今にも飛び掛らんばかりに笹藪の中を威嚇し始めた。それこそ猛禽類のようにだ。

そしてクチバシをカチカチと鳴らし始めたのだった。

 すると、どういうことだろう。本当に不思議だ。また、あの生ぬるい風が俺の頬をかすめて戻って行ったのだ。

そして奥の笹薮は、何事もなかったかのように元の静けさを取り戻していた。

 もう何の気配も感じない。そう思った時、ジョナサンが振り向き、「バイクに乗って直ぐに行け!」と言ってきた。

いや、言葉で聞いたのではない。そう感じたのだ。

 俺はヘルメットを被り、美砂を後ろに乗せると、エンジンを掛けるのと同時にバイクを発進させた。

 それを見届けると、ジョナサンもゆっくりと舞い上がっていったのだった。

 

 

 脇道を抜け、道道に出ると、神恵内村に向けて峠を下り始めた。

下りのコーナーは覆道やシェルターが多い。そこを突っ込んで走り抜けるほど俺は若くはないし自信家でもない。それは自分自身でも良く分かっている。それにやはり、先ほどの笹薮での事が頭から離れない。

 俺は流すようにバイクを走らすと、もう一度思い返していた。

すると、おかしなことに気付いた。

 あの笹藪の揺れはヒグマだと決め付けていたが、俺自身ヒグマを目撃した訳ではないし、唸り声を聞いた訳でもない。本当にヒグマだったのだろうか・・・

 それに背中が凍るほどの寒気。今にも得体の知れない何かが飛び出してきそうな恐怖感。そう、あのトンネルの時とまったく同じだ。

 もしそうなら、ジョナサンは最初から分かっていたから岩に降り立つと、俺達に背を向け笹薮の方を見ていたということか。

 ジョナサン、やはりお前は守り神か。

 見上げると、彼はゆったりと上空を舞っている。

 美砂も同じように上空を見上げると、安心したかのように俺の腰に両腕を巻きつけ、身体を押し付けてきた。

 背中に感じる美砂の胸。吐息までもが首筋に感じてきそうだ。

 俺は美砂の肉体を感じる幸せをジョナサンに感謝しつつ、バイクを走らせたのだった。

 

つづく

 

其の〈9〉積丹半島 (レストランにて)

 

 ローソク岩を後にすると、また何本かのトンネルを抜けた。だが、先ほどのような空恐ろしいことはなかった。

美砂は普通に俺の腰に腕を回しているし、至って落ち着いている。それにあのカモメも相変わらず上空を舞ってついて来ているが、あれ以来トンネルの中を飛ぶことはなかった。

いったいあのトンネルはなんだったんだろう。そんなことを考えていると肩越しに美砂の声がした。

「ねぇ~ どこかで休んでいこう。おなか減った」

 確かにそうだ。ああいうことがあったあとならなおさらだ。

 俺は古平町の手前にあるドライブインにバイクを入れた。

そのドライブインは国道からちょっと小高いところにあり、一階が売店で二階がレストランになっていた。そこから積丹半島特有の奇岩の多い海岸線や日本海全体を見渡すことができる。ゆっくりと食事をするのなら絶好の場所だった。

 俺と美砂はバイクを止めると、売店横の階段を上がって行った。

二階のレストランのドアを開けると、中は以外と広く日本海側は全面ガラス張りになっている。平日のせいか、客は誰もいない。俺は一番隅の席、いや、一番日本海に近いテーブル席に美砂を誘った。

 座ると早速ウエートレスがメニュー表と水を持ってきた。場所柄か、やはりシーフードが多い。

 俺はメニュー表を見ていると、あるものに目が止まった。今が旬のウニ丼だった。それは三十年前、まだ金の無かった時代、食べたくても食べれないものだった。

 俺は昔を思い出し、メニュー表のウニ丼の写真を見ていると、美砂がフッと笑った。

美砂も思い出したようだ。俺の目をしげしげと見ている。そして言った。

「ねぇ、ウニ丼食べようよ。せっかくまた二人で積丹に来れたんだから」

 俺も美砂の目を見てフッと笑いが出た。

 早速ウエートレスを呼び注文した。頼んだのはウニ丼二つと旬の握り寿司一盛り。美砂はまた俺を見てフッと笑っている。

 注文の品が来るまで、俺と美砂は海を眺めていた。

海岸線は断崖絶壁が多く、奇岩が突き出ている。そのそれぞれに言い伝わった名前がついていた。

 海は穏やかに凪ぎていた。恐らくは風もないのだろう。油凪ぎ状態だ。

その中を例のカモメがスーッと舞い降りてきた。そして、その遥か向うにはシーカヤックが見える。煌く海面をゆったりと漕いでいる二人乗りのタンデム艇だ。積丹半島をツーリングしているのであろう。

 俺はシーカヤックを見ながら、頭の中は先ほどのトンネルのことを考えていた。

『あそこまで怯えうろたえていた美砂は見たこともない。それに俺自身あんな経験は初めてだ。やはり、あのトンネルには何かある。そしてあのカモメ。いつも美砂を見守っているような気がする』

 そう思い、俺は美砂に聞こうとした。すると、先に口を開いたのは美砂だった。

「ねぇ~、あのシーカヤック、二人乗り?」

「あ~、ツーリングの最中だろう」

 美砂の目は沖合いをツーリングしているシーカヤックに向いていた。

「いいなぁ~、二人乗りもあるんだぁ~。ねえジロウ、今度シーカヤックに乗せて? ああやって海の上を漕いでみたい」

 俺は一瞬返事に戸惑った。

美砂をシーカヤックに乗せるということは、ステーションの須藤に美砂の存在を知られるということだ。でもそれは・・・

その時、一瞬妻の顔が頭の隅を過ぎった。

だめだ、やはり今の美砂は俺だけのもの。そう、誰にも今は知られたくはなかった。

 俺は適当に返事をしていると、ウエートレスがやってきた。結局あのトンネルのことは聞きそびれてしまった。

 ウエートレスは注文の品を置くと、そそくさと戻って行った。どうも愛想がない。だが、目の前にある丼にはあふれんばかりのウニがのっている。メニューの写真よりボリュームがあるようだ。

そして旬の握り寿司の盛り合わせ。イクラやブリはもちろん、本マグロ、ヒラメ、甘エビにアワビやツブ、ホッキまである。どれもこれもが地場の魚貝類であり、俺の大好きなものばかりだった。

 俺は早速醤油にわさびを溶くと一気にウニ丼にぶっ掛けた。

丼を食べるのに上品な食べ方は必要ない。そのまま口の中に掻き込む。口の中いっぱいに磯の香りとこくのある甘味が広がってくる。旨い。

仕事柄、魚貝類を口にすることは多い。もちろんウニもだ。だが、今食べているウニは本当に美味しい。前浜で上がった新鮮なものだからではない。そう、やはり三十年前を考えていたからだった。

 俺はウニ丼を一気に平らげると、息つく間もなく握りに手を伸ばした。

気がつくと握り寿司の大半を平らげていた。そして好物の本マグロに手をつけようとした時、美砂の笑い顔が目に映った。

「ほんとに相変わらずね~ 全部食べていいわよ。

私、ウニ丼でお腹いっぱいになっちゃった」

 優しい笑顔だった。

 考えてみると、いつもそうだったような気がする。高校生の時、学校帰りに立ち寄っていた焼そば屋でもそうだった。

 俺は一人前では絶対に足りなかったので、いつも三人前はあるお得な得盛りを頼んでいた。それを美砂と二人で分けあって食べていた。

分けあうと言っても俺はいつも半分以上、いや、二人前以上は食べてしまっていた。美砂の分は一人前にも満たなかった。それでも美砂は食べ終わると、「お腹いっぱい」と言って満足そうに笑っていた。そう、今もまったく同じだ。笑顔も全然変らない。結局俺は握りを一人で全部食べてしまった。

「フーッ・・・」

 一息ついた俺はお茶を飲みながらジージャンのポケットからタバコを取り出した。一本口にくわえると昔から愛用しているジッポで火を点けた。

「まだタバコ吸ってたんだぁ~」

 美砂がちょっと驚いたように言った。

「ん? どうして?」

「だってこの前行ったブックカフェでは全然吸わなかったじゃない。

だからもうやめたのかと思ってた」

 自分でも言われるまでタバコのことはまったく気がつかなかった。それ以上にあの時は美砂のことしか頭に無かったからだ。

「この前は美砂と会えたことで気持ちがいっぱいになっちゃったから。

それにあのカフェは本当に不思議な空間だったし・・・」

 そう言って俺は紫煙を吸い込んだ。体中にゆったりとした気分が行き渡る。

「でも今日は違う。これからもずーっと美砂と会えると思うと嬉しくて・・・」

 相槌を打つようにフッと笑う美砂だった。だが、一瞬目線をずらしたその横顔に暗い影が過ぎった。

普段見せることのない表情だった。

「どうした?」

「う、う、うん、なんでもない。

ちょっとさっきのトンネル思い出しちゃって・・・」

「トンネル? トンネルってあのトンネルか?」

 一番気になっていたことを美砂の方から言ってきた。

「なにかあるのか? あのトンネルに・・・」

 美砂はしばらくうつむいてから口を開いた。やはり影が漂う。

「怖かった。本当に・・・ 連れ戻されるかと思った・・・」

「連れ戻される? 連れ戻されるってどこに?」

「分からない。だけど・・・ トンネルの天井から大勢の人が手を伸ばしてきて私を捕まえようとしていた」

「大勢の人? 誰なんだ? そいつらは・・・」

「分からない。けど、みんな顔はなかった・・・

両腕だけがスーッと伸びてきて・・・ 本当に怖かった。

だから・・・ 思わずトンネルを抜けた時、ローソク岩に手を合わせたの。

なんだか助けてくれたみたいで・・・」

 俺が感じていたのとまったく同じだった。

「ねえ、帰りはあのトンネルは通らないで帰ろう?

あのトンネルはもう通りたくない」

 美砂は哀願するように言ってきた。

 俺だってあのトンネルはもうこりごりだ。じゃあどこを通って帰る? 積丹半島から塩谷に帰るには、またあのトンネルを通るしかない。

 考えていると美砂の方から言ってきた。

「ねえ、トーマル峠を通って積丹半島を横断しない? そしてニセコを通って帰ろうよ」

「トーマル峠?」

 聞き返すと、美砂は何故か含み笑いをしている。俺にはその意味がすぐに分かった。

 トーマル峠とは、古平町から積丹半島の反対側にある神恵内村まで半島を横断して通る道道998号線の途中にある峠のことだった。

この峠は若い頃からライダー達がコーナリングの腕を競う場として、隠れた名所だった。ご多分にもれず俺もその一人だ。何度か美砂を後ろに乗せ、コーナーを攻めたことがある。美砂はその時のことを言っているのだろう。

 そうとなると早いほうが良い。積丹半島を横断し、ニセコを通って帰るとなると300キロ近く走ることになる。

 俺はフッと笑うとヘルメットとキーを手にした。

 

つづく