其の〈15〉スコッチバンクス

スコッチバンクスは電車通り沿い、駅前通りとの交差点の角のビルにあったはずだ。
俺は電車通りを美砂と二人で歩いた。
所々に赤ちょうちんやラーメン屋があり、今でも昔の風情が残っている。
懐かしく思いながら歩いていると、美砂は俺の左腕に両手でしがみつくように腕を絡め、上目使いに俺を見て、フッと笑った。
その時、横を路面電車が通り過ぎていった。俺は高校の時、路面電車に乗って通学していた時のことを思い出した。あの時の、横に乗っていた美砂の笑顔は今とまったく同じだった。
駅前通りに近づくと、周りは高層ビルが立ち並び、人通りは徐々に多くなってきた。夜も遅くなってきたせいか、酔客が目立つ。どの顔も楽しそうで幸せそうだ。
俺はふと、何気なく上空を見上げた。
「あれっ?」
その時だった。ビルの谷間を縫うように、スーッと白い航跡が飛んで行った。
「あれは・・・」
ジョナサンだった。
今日はいないだろうと思っていたが、甘かったようだ。しっかりと美砂を見守っている。
「大丈夫ですよ、ジョナサン。ミサには絶対に手を出しませんから・・・」
俺は思ってもいないことを呟いていた。本当は美砂が欲しくて欲しくてしょうがない。それこそ、うずうずと我慢できないくらいだ。
そう思っていると、突然、
「パーンチ!!」
と美砂の左手が眼前に飛んできた。
「なぁ~に考えているの? また良からぬことを考えて・・・ これこれ!」
美砂はおどけながら握った左手で俺の頬をグリグリした。そして、あの愛くるしい目で俺を見ている。
「別に・・・ なーんにも考えていないよ。ただ・・・ ほれ・・・」
俺はそう言って目で上空を指した。上空ではジョナサンが旋回している。
「フフフッ・・・ ちゃーんと来てる。でも・・・ 今日は来なくてもいいのに・・・」
そう言う美砂の目は、何故か残念そうだった。
俺は、
『ひょっとして、ミサは俺と同じことを考えているんじゃないだろうか?
いや、俺よりも望んでいるんじゃないだろうか・・・?』
そう自分勝手に思っていた。
俺は美砂の肩を抱き寄せ、頬をすり寄せた。
美砂もスッと頬をすり寄せる。
そうしているうちに、懐かしい看板が目に飛び込んできた。
駅前通りの角にあるビル。そのビルの地階に降りる階段の隅に、その看板はさりげなくあった。
トレードマークとなっているカギが描かれている。
まさしく、それはスコッチバンクスだった。

「ほら、やっぱりあった。ねっ? ちゃんとあったでしょ!」
美砂は何故か得意顔で言っている。だが、俺は今一つ納得がいかなかった。そう、ネットでいくら検索してもヒットしなかったからだ。
俺はチラッと上空を見上げた。何かあれば、ジョナサンが舞い降りてくるはずだ。だが、ジョナサンは相変わらずビルの上を旋回している。舞い降りてくる気配はないようだ。
「よし、入ってみよう」
俺は安心して美砂を地階へと誘った。
階段を下りていくと途中の踊り場で、俺は何故か軽いめまいを感じた。そして、天井の蛍光灯がうっすらと白く霞む。霧がかかっているようでその先が見えない。
立ち止まり、目頭を押さえていると、
「大丈夫? 酔っ払っちゃった?」
と美砂が俺の顔を覗き込むようにして聞いてきた。
「いや、大丈夫だ。ちょっとクラッとしただけだ」
そう言うと、めまいは直ぐに収まり、視界もすっきりとしてきた。
やはり、ちょっと酔いが回ったようだ。
階段を下りると、すぐ目の前にスコッチバンクスのドアがあった。そのドアは、三十年前とは違う何か不思議な感じのするドアだった。
俺は一瞬躊躇したが、ドアを開けるとすぐ横でウエーターが待っていた。
白髪をオールバックにまとめ、細面の顔に口髭を蓄えている。彼は軽くお辞儀をすると、こちらを見て丁寧な口調で言った。
「ようこそ、いらっしゃいませ。お二人様ですか?」
俺は軽く頷くと、ウエーターは地階のワンフロアすべてを使っている広い店内に俺と美砂を案内した。
店内はソファー席が並ぶラウンジとなっている。その中のステージにほど近い席に俺と美砂は案内された。
ステージ上では、女性ピアニストがジャズを奏でていた。譜面で顔は見えないが、黒いストレートなロングヘアーを後ろで清楚にまとめている。弾いているのは懐かしい曲、テイクファイブだ。女性らしく艶っぽさがにじみ出ていた。
店内を見渡すと、ほぼ満席に近い。客層は若い連中はほとんどいない。俺と同年代か、少し上ぐらいだろう。そのほとんどがカップルだった。
ウエーターがメニューを差し出したが、俺の注文するものは初めから決めていた。
カティーサーク18年 デラックス。俺はそれをボトルで注文した。正直、高価だったが、俺はこの先も美砂と二人でこの店に来たかった。それにこのスコッチは若い時からの憧れでもあったからだ。
ステージ上の曲が終わったようだ。客席から多くの拍手が送られている。
その中をピアニストが譜面を閉じ、立ち上がると一礼した。その時、俺をチラッと見たような気がした。
瞬間、俺は自分の目を疑った。ピアノを弾いていたのは美砂だった。いや、美砂と瓜二つの女性だったのだ。
俺は横にいる、いや、いるはずの美砂を見た。
美砂は、何故か穏やかな顔をして、「どうしたの?」と聞いてきた。
そして、俺が驚き、狼狽えているのを察してか、落ち着いた声でこう話した。
「本当に私そっくりね。自分でもびっくりするぐらい似ている。
でも、私、ピアノ弾けないの知っているでしょう? 本当は弾きたかったんだけど・・・」
俺はギターを弾いていた高校生の頃、美砂がピアノを弾きたいと言っていたのを思い出していた。
もし、美砂がピアノを弾いていたら、あのピアニストのようにジャズを弾いていたかもわからない。
この店は、『若い時の夢を少しだけ叶えてくれる』そんな店になっているんじゃないだろうか・・・
ふと、そう思っていた。
ほどなくして、先ほどのウエーターがボトルを持ってやってきた。
テーブルの横にひざまずくと、グラスを二つ。そして、氷とミネラルウオーター。最後にカティーサークを置いた。
俺はグラスに氷を入れていると、ウエーターは俺にボトルのカギを渡した。
三十年前と全く同じ真鍮製のカギだ。そのカギには、俺がボトルを頼んだ時にお願いしたボトルの番号と同じ番号が刻まれていた。
それは、『M0926』と。
俺は、そのカギを美砂に見せた。
美砂は懐かしそうにカギを見ている。そしてカギに刻まれているボトル番号に目がいった時、一瞬驚きの表情を見せた。
「これは・・・」
そう口を開きかけた時、横にいたウエーターが穏やかな表情で言った。
「その番号は奥様のお誕生日ですか? その日には、ぜひお越しくださいませ。私どもも、ささやかながらお祝いをさせていただきます」
『奥様』という言葉に美砂の表情が一瞬ほころんだ。気のせいか頬が紅く染まっている。
「はい、絶対に来ます!」
声までもが弾んでいた。
「では、今日はごゆっくりとおくつろぎくださいませ」
そう言ってウエーターは一礼すると、カウンターの方へ戻って行った。
俺はグラスにカティーサークを注いだ。琥珀色のスコッチがグラスの中で揺らいでいる。
美砂とグラスを合わせた。懐かしい、いや、それ以上の味だった。
美砂は一口飲むと、
「私、本当に奥さんに収まっちゃおうかな・・・」
と、グラスを両手で持ち、遠くを見るまなざしで言った。
そして、俺の方に向き直ると、
「大丈夫、変なこと考えていないから・・・
けど、ジロウとこうして二人だけでいる時だけは、そうしていたい・・・」
そう言って、俺の肩に頬をすり寄せた。
俺はただ頷き、美砂の肩を抱き寄せていた。そして、もう一口カティーサークを口にすると、何故か不思議な嬉しさだけが込み上げてくるのだった。

次のライブまでは、小一時間ほどあるようだ。
俺はボトルのカギをキーホルダーに付けると、大田の家で中学校時代の何人かが集まったのを美砂に話した。
「そう言えば、この前、大田の家で同級生が何人か集まったんだ。みんな元気そうだった。特に相沢なんかは全然変わっていない。昔のまんまだ。
あれで髪をおさげにしてセーラー服着せたら今でも中学生で通るかもわからん」
そう言って自分でも可笑しくなった。
美砂も横でプッと笑っている。
俺は続けた。
「それでな、今度クラス会をやることになったんだ。
幹事は大田だ。そのうち美砂のところにも大田から案内が行くと思う。
また二人で一緒に行こう。一緒に行って皆を驚かしてやろう。
こうして美砂と会っているのは大田も知らないからな。
みんなすげーびっくりするぞ!」
俺はちょっと得意気に話した。だが、美砂の横顔にフッと寂しげな影が一瞬過ったのが見えた。それは、本当にほんの一瞬だった。
美砂はフッと気を取り直したようにこちらを見ると、いつもの愛くるしい顔で言った。
「そうだね。今度は腕組んで堂々と二人で行こうね。
こうやって二人でいれるんだから・・・」
そして、スッとまた俺にもたれかかるように身体を寄せた。
俺は話続けた。
「そう言えば、大田が言っていたんだけど、佐藤ってやつが三年前の春に、ニセコの尻別川で事故死したのが新聞に載っていたらしいんだ。
佐藤雄太か? って聞いたら名前までは分からんと言っていた。
俺が、佐藤雄太なら、この前ニセコで会ったぞって言ったらびっくりしていた。
大田はてっきり佐藤雄太が事故死したと思っていたからな。
佐藤って苗字は結構多いし、ドライスーツを着用していたら沈しても低体温症にはならないだろう・・・」
俺がそう話していると、美砂が俺に身体を預けたまま、消え入るような声で話した。
「そうなんだよね。いつもはちゃんとドライスーツ着ていたのに・・・
あの時はどうして・・・」
「えっ? 今なんて言った?」
美砂の最後の言葉をかき消すように、店内から盛大な拍手が沸き起こった。次のライブが始まったようだ。
俺はもう一度美砂に聞いたが、やはり俺の声は美砂の耳には届かなかったようだ。美砂は身体を起こし、身を乗り出すようにステージ上に見入っていたのだった。

ステージ上では五人のグループが準備をしていた。
全員が濃いダークグレーのスーツを着用している。
襟元のVゾーンが小さく四つボタン。スラックスは細身でネクタイも細い。
それは、60年代に流行ったスタイル、モッズ・スタイルだった。
俺はそのスタイルから、当然ビートルズのコピーバンドだと思った。
だが、一人多い。ビートルズは四人だ。ま、さしたる問題ではない。キーボードを入れたら五人になる。
いよいよ演奏が始まった。
聞いたことのあるイントロだった。
「これは・・・」
ビートルズの曲ではない。日本のGS、カーナビーツが歌ってヒットした、『好きさ 好きさ 好きさ』だ。
彼らはGSのコピーバンドか・・・?
そう思いながら聴いていると、ボーカルが歌い始めた。
俺は、この時初めて気づいた。彼らは日本人ではない。全員白人で歌詞はすべて英語だった。そう、彼らが歌っているのは、カーナビーツがカバーした『好きさ 好きさ 好きさ』の原曲、ザ・ゾンビーズの『 I Love You 』だった。
店内にいるほとんどの客が、このグループ目当てに来ているようだ。
皆、ノリノリに盛り上がっている。特にカップルの中には、立ち上がり、二人で踊っている者たちまでいた。
美砂も例外ではなかった。身体全体でリズムを取り、曲に乗っていた。
俺は不思議な感じがした。この一種異様な盛り上がり。ある意味、異常な感じすらした。なぜここまで皆興奮するのか・・・
曲はこの後もゾンビーズのビートの効いた曲が続いた。それはコピーバンドというものではなかった。明らかに本物。若い時にレコードで聴いていた音そのものだった。
そしてステージ上の彼ら。それはレコードジャケットの写真でしか見たことのないザ・ゾンビーズのメンバー、彼らそのもの・・・ 俺の目にはそう映っていたのだった。
ビートの効いた曲が何曲か続いた後、サマータイムが流れた。
ゾンビーズ特有のバラード調に歌われたサマータイムだ。
一瞬店内が静かになった。ボーカルの声だけが客席に響き渡る。
その歌声を聴いていると、カップルのほとんどは抱き合いながらチークしている。そして涙していた。
何の涙なのか? 俺には想像もつかない。だが、美砂も俺の左腕に執拗なほどにしがみつき、そして閉じた目からは一滴の涙がこぼれていた。
この時、ボーカルの歌声が俺の耳にはっきりと残っていた。
それは、『Don’t You Cry』“泣くんじゃないよ”という声だった。
俺にはこのサマータイムという曲が、店内にいる客全員に何か諭しているように感じていた。
それはなんだろう? もうすぐ訪れる別れだろうか・・・?
そんな雰囲気さえ感じられる曲だった。
サマータイムを歌い終えると、バンドのメンバーは一呼吸置くようにそれぞれミネラルウォーターを飲んでいる。そしてボーカルが何か話し始めた。
当然英語だったので、意味はよく分からない。だが、彼らのステージが今日最後のライブであり、これから歌う曲が、『Last Song』そう、“最後の曲だ”と言っていることだけは分かった。
店内を見渡すと、カップルの多くがお互いを見つめあい、そして何か語りあっている。まるで最後の時間を惜しむかのようだ。
俺は美砂を見つめた。
美砂は俺の左腕にしがみつき、時々頬をすり寄せている。
そして上目使いに俺を見た。その目は何故か穏やかで、いつにも増して愛らしかった。
俺は自分の鼻先をツンと美砂の鼻先に擦った。美砂はフッと笑うと、軽く口づけをしてきた。そう、チュッと軽く。
俺は思わず美砂を抱きしめた。美砂は俺の胸元に顔をうずめ、目を閉じ、そしてスッと頬をすり寄せる。
美砂の髪からは、ほのかなシャンプーの香りがする。美砂の匂いだ。
俺は美砂を抱きしめ続けた。
『このままずっと、ずっと一緒にいたい』そう思っていると、最後の曲が始まった。
ザ・ゾンビーズの名曲、『Time of the Season』“ふたりのシーズン”だった。
俺はステージ上の彼らを見上げた。美砂もうっすらと目を開け見上げている。
するとボーカルは、肩を寄せ合っている客の一人一人を見つめながら歌っていた。
それは、
『いつの日か、またここで・・・ このスコッチバンクスでお会いしましょう・・・』
そう言っているように俺は感じていた。
曲が終わると、彼らは静かに、そして消え去るようにステージ上から降りて行った。
一瞬、店内が静まり返った。時間が止まったように感じる。
そして、フッと何故か穏やかな風が流れたように感じた時、またゆっくりと時間が動き出したようだ。
一人、また一人と立ち上がりスコッチバンクスを後にしていく。
俺は腕時計を見た。終電の時間が迫ってきたようだ。
美砂も分かっているのであろう。俺を見つめている。
「そろそろ行くか?」
「うん・・・」
美砂はゆっくりと頷いた。
そして、スコッチバンクスを後にする時、俺はもう一度店内を振り返った。
すると、ドアの内側で例のウエーターがお辞儀をして見送ってくれていた。
ただ、その向こうの店内は、薄い白霧が覆っているようで、俺の目に映るものは何もなかったのだった。
つづく