芸術の秋過ぎ、もう街は木枯らし。
パリに戻り、セーヌ川沿いに歩いていくとテントで作られたいくつもの私設ギャラリーがずらっと並ぶ。
街の色が褪せていくほど心は彩りを求め、それを芸術に投影していくのか、
な~んて思いながら、一つの疑問にぶつかった。

果たしてコトバの世界はArtなのか?

音楽業界では歌う人を一般にアーティストと呼ぶけど、英語ならシンガーなんだよなぁ・・・じゃあぼくらはアーティスト???

べつにそれはどうでもいいことなんだけど、もしartがartificialとおなじ語源を持つとすれば、いかにart=芸術か?という問題はいかに芸術=人工的(artificial)か?ってことになるよなぁ?

そもそもコトバはヒトが創り出したもの。もちろん生物によっていろいろなそれに類似するメディアがあるみたいだけど、やはり言葉は人間の専売特許。

なによりartificialの反語naturalの意味からすると、確かに自然は見事な彩りやこころに優しい匂い、音を奏でてくれはするけれど、自然が言葉を届けてくれることはあり得ない。言葉から自然を想起させることは出来てもその逆はないという結論に至るわけで、それだけに言葉の世界は極めてartificialであるということになるな・・・

つまり、言葉という媒介はもっともArtたり得る資格を持つ、うん

そういうことにして今日はおやすみすることにしよう。

ぼくのあいするひとたちへ

おやすみ

Kenn
2002/11/18(Mon)


ぼく「なぁ」
ボク「なに?」
ぼく「ひさしぶりに反論してもいいかな?」
ボク「ああ、かまわないさ」
ぼく「言葉で自然の中のなにかを想起させることが出来るとしても、自然が言葉を届けてくれることはない、っていってるだろ?めずらしく言い切ってる」
ボク「なーんかいいたいことがわかってきたさ」
ぼく「っていうのはね、自然が言葉を届けてくれることがあるんだよ、実際」
ボク「それってさ、写真撮り始めてから感じたことなんじゃない?」
ぼく「あ!、いわれてみれば、確かにそうかも」
ボク「あの頃ボクはまだ本格的に写真に向き合っていなかったし、風景みてもキレイだなあ、とか不思議だなぁとか、すごいなぁ、とかいう素朴な感動しか感じられなかったんだよ」
ぼく「ロケハンして、日の出入りを確認してセッティングしてファインダーを覗きながらその一瞬が来るのを待っているうちに流れてゆく風景や時が、まるで無音のメロディーやリズムを奏でているような気がしてくるんだよ。だからこれ!という作品が上がった時にはもう散文詩やタイトルができてる」
ボク「それはボクの知らないぼくだろ?」
ぼく「そうか、そんなものなのかもしれないなぁ」
ボク「そういう新しい世界へ挑戦できるボクが羨ましい」
ぼく「まあそういうなよ、後二年くらいでハマるさ」
ボク「そうだよね。そしたらボクにも風の歌が聞こえるかな?」
ぼく「きっと聞こえるよ、他にもいろんな音が。それが自分のイメージや世界観を広げてくれるんだ」
ボク「写真やってよかったね」
ぼく「ああ、難しいけどね、やたら」
ボク「最近は人ばかりじゃない?」
ぼく「ああ、それくらいじゃないと時間的に受けられないし。なぁ、それにしても今日のエッセイ難しくないか?」
ボク「いや、だってさ、アーティストっていう言葉の使い方がなんだか間違っているような気がするんだよね、ちがうのかな?」
ぼく「まあなんといわれようがいいじゃん、書いてるのはぼくたちなわけだし。アーティストの肩書きが欲しいから書いてるわけじゃないだろ?」
ボク「そういわれるとその通りとしか言いようがないんだけどね。詩を書く人たちの待遇がさ、あんまりにひどいじゃない、この頃特に」
ぼく「まあそれは一理ある。けれどそれは書く側にも問題があるのも事実、だろ?」
ボク「ま、そういわれると、ボクには反論の余地がないからさ」
ぼく「ま、しょせん大衆芸術かもしれないけどArtであることは間違いないよ。心配すんなって」
ボク「そっか、少し嬉しい気分」
ぼく「そいつはよかった」
ボク「これから最後の一行の直し?」
ぼく「いや、今日は朝から病院3軒はしごしてきたから、これからまず寝るわ。起きたら書く」
ボク「おk。ゆっくりおやすみ」
ぼく「サンキュ、また今夜会えたらな}