AmebloMoccini 『Moccini~迫力~』


船を泊め、エンジンを切り波の音に耳を澄ませる
Blowingの音が聞こえると同時に、鯨の後方に回り込む
100メートル以上の接近は禁止だ
ギリギリまで近づいて再び停船する。
するとこうして、彼らは時折自ら船のすぐ近くに顔を出す
人間の指紋とおなじように
鯨には尾紋があるんだ。
写真は小笠原とハワイを往来する鯨、
モッチーニのテール
この名前を聞いて
なんとなく他人じゃないような気がしたのは
なぜだろう?(笑)


 小笠原シリーズ最後の一枚(この42枚の中ではね!)はこれです。買ったばかりのD2Xダメにする覚悟で撮った一枚です。船は大揺れだしモッチーニもすごい勢いで出てきたのでちょいブレてますが・・・

 鯨とイルカはなんでだろ?なんか親近感あるんだよね。しかも人間の指紋とおなじで尾紋がある。だからみんな名前が付けられていて、現地の人ならそれを見るだけで名前がわかるんだって。モッチーニのテールは左側の端がシャチかなんかに襲われて噛られた跡があるから尾紋を見なくてもわかるらしい。

 彼らも悪意がないとわかると自分から近づいてくるんだよね。これってすごいことだと思わない?通じてるんだもん、心が。おれには人の心の方がわからないかも・・・

 人間を否定するとかそんな大きな意味でいってるんじゃないんだ。最近友達を一人なくしちゃったんだよね。いやいや、死んじゃったんじゃなくてさ。ずっと仲良しだったのに、ある日突然嫌われちゃったみたいなんだな?その理由をいちいち列挙して非難するような無粋な人じゃないから、原因はいわないんだけど、どうやらぼく自身がなにかしでかしたか、無意識のうちに彼を傷つけるようなことをいったか、信用をなくすような態度を取ったか・・・知らない場所で誰かになにか言われて誤解が生じているのかもしれないけど、こういう時は自分自身の至らなさを問うた方がいいよね。今でも戦友だと思ってるからいつかまた一緒に仕事したいけど、ぼくがそれに気づくまではムリなのかな?でもどう考えてもまだ原因がわからないんだ。失格だよね。ただ時期的にテンパっていた頃だったし、人を思い遣る余裕がなかった時期だったとは思うんだ。

 My dear friendなんて詩書いておきながらこんなんじゃまるでダメ男。書いてることとやってることが一致しないんじゃ嘘になっちゃうもんね。慌てずにしばらく考えてみます。

 さて、麻実の血液型だけどね、正解はO型。別に話の中にそんな会話は出て来ないけど、登場人物全員にそういう設定があるんだよね。歌詞もおなじ。そこには出て来ないけど、裏に隠されたストーリーが必ずある。そういう見えない所にある何かが詩に説得力を持たせたりする。

 ぼくは一曲書くのにそんなに時間はかからないんだ。ただ、書き始めるまでに時間がかかることが多い。何度も曲を聴いているうちにいろんなことがアタマの中に浮んで来るんだけど、これ以上書かないでいると思いついたことを忘れちゃう><っていうギリギリまで引っぱってから一気に書き始めるんだ。んでもって書き始めるとものすごい勢いで頭が回転して、構成とか伏線とか仕掛けとかを全部ひっくるめてまとめあげていく。そうすると初稿を書き下ろした後に書き切れなかったことが残ったりする。そして残ったものと使ったものの選択を間違えていないかどうか見直して、やっぱりこっちと思えばどこかを削ってそれを入れ込んでいく。

 つまり1曲書くのに2~3曲分のアイディアがあって、最後に「削る」という作業が必要になってくる。これがとても大切な過程だといつも思ってます。詞を書く時、慣れてないとだいたいの人がいきなり書き始めて、途中で書くことがなくなっちゃうんだよね。そうするとそこでストップして煮詰まってしまう。結果、なんでもいいから言葉を当てはめて空いているスペースを埋めていこうとするものなんだけど、そうすると歌詞そのものが薄くなってしまう。反対に「削る」ことはとてもしんどい作業だけど、削られたコトバの持つ言霊っていうのかな?それが宿って初めて作品に深みや説得力が出てくるように思います。

 いつもいうように、ぼくらが創れるのはその作品の半分、残りは聴き手の感性に委ねられるから当然すべてを聴き手に理解してもらえるとは思ってない。違う解釈のされ方をされても当然のこととしてぼくは受けとめる。「Style」なんかがいい例だよね。人によっては「友達に向けたメッセージ」と捉える人もいれば、「これは別れた恋人へ向けたメッセージ」だと捉える人もいる。書いている時にぼくがイメージしていたのは「おそらくこれは離れ離れになった友達に対するメッセージ」として捉えられるだろうな?と予測しながらも、実は「過去の自分から未来の自分へ向けたメッセージ」というのがコンセプトだったりもする。おそらくはそう捉えた人はそう多くはないと思う。でも、ぼくが書いた時はそんな風に考えてた。いや、むしろ「歌は創り手と聴き手の感性のコラボレーションだ」という発想を教えてくれたのがあの詩だといった方がいいのかもしれないな。それくらい解釈が割れた詩、それがStyle。

 そう考えると、「カワラナイデ、カワラナイデ」という過去の自分からの声を見失ってしまったぼくがいて、それが前述の友達とのすれ違いを生んでしまったのかもしれない。だとしたら、これまた失格だよね、いい加減自分がイヤになる・・・もちろん自分が変わっていなくても、周りが変わることで今までいっていた正しいコトバが間違って伝わってしまうこともある。謙虚さを忘れまいと謙遜した発言が知らない間に嫌味にとられていたりもするから、難しいよなぁ。

 また話が飛ぶけど、AB型だから堪忍してね^^:ぼくの小説が未完成なままなのは、おそらくはこの「削る」という勇気が足りないからなのかもしれない。すべてを伝えたがる自分を抑えきれないあまり書きすぎてしまっている。きっとそうなんだと思います。だからいつか「推敲」できる時間ができる日が来るまで、出版はお預けでしょう。そして、そのために必要なのがプロの編集担当なんだろうけど、文芸の出版業界にあまり繋がりがないぼくにはそんな相棒が見つけられないでいる。こうなったら自分でやるしかないよね。なので、もう少し時間を下され。こんな風に日記を書きながらも自分の中でいろんなことを整理している。いまはそんな段階です。企画性とかストーリー自体には自信がある。てかそう思ってないと250枚の作品を五編も六編も書けやしないから。ただ文芸作品というより脚本に近かったりディテールを書きすぎていたりするんだろうな。

 会話だけで1章、とか手紙だけで1章とか、あるもんね。これはこれで面白いと思うんだけど、編集者を納得させられない限りあくまでも邪道な技でしかない。わからないけどね、それが面白いという人が出て来たりするかもしれないから。でもいまの文学界では通用しないんだろうな。

 もっとも「なんでこれが売れるのに、おれのじゃダメなの?」と思うこともある。悔しいけどこれはその人の過去の実績なんだと思います。素晴らしい才能を持った、革新的な詩想観を持った作詞家の卵がなかなかデビューの糸口をつかめなかったりするのとおんなじなのかな?それとも、ぼくの文体に決定的に欠如している何かがあるか?まだよくわからないや。

 ハワイと小笠原を行き来するモッチーニのように、またその友達が笑顔で戻って来てくれるよう、反省と祈りを込めて今日の日記とさせていただきますm(__)m

Kenn