AmeblozI{ 『最期の雄姿~空蝉~』

ぼくらの背後にキミの声が響いた。
みんなが振り向く。
地べたの上で、
キミが必死になって羽ばたいていた。
何度も思いきり、
地べたの上で羽ばたいていた。
くるくるまわっても、
壁にぶつかっても、
羽根が割れても。
次の瞬間、
キミはひっくり返り天を仰いだ。
万事休す、か。
誰かが手を差し伸べようとした。
「やめろ!」
誰かが叫んだ。
キミはたぶん、
ひとつ深呼吸して、
もう一度だけ思いきり羽ばたいた。
ブーン、
ぼくらの周りの空気がキミの羽の力で振動した。
次の瞬間、
キミは再び立ち上がった。
そしてそれきり動かなくなった。
ぼくはそっとキミに近寄った。
胸を張ったまま、
二度とキミが動くことはなかった。
ぼくの背中で天使が羽ばたく音がした。
空蝉、
最期の雄姿、
ぼくはファインダーの中にその姿を焼きつけた。
夏の終わりの出来事だった。


わずか25年の短い人生を駆け抜け、
空に羽ばたいた一人の美しき天使に捧ぐ・・・



 誰とはいわないけど、もう一年になるかなぁ、仲の良い女の子の友達が出張先のベガスでクモ膜下出血に倒れ、わずか25年の人生に幕を下ろした。別に特別な仲だったわけじゃないけど、会うとよく話したんだよね。特に自分が自分を見失っていた頃にはよく元気をもらったんだ。底抜けに明るく振る舞ってたけど、実はものすごく賢くて、繊細な人だった。

 彼女が意識を失う2日前にもみんなでひさしぶりに再会して、飲んで盛り上がってた。その時は全然異変はなかったんだ。だからあまりにもその訃報は突然すぎて、ぼくらの心に大きな風穴が空いてしまった。友達でさえそうなんだからご遺族のみなさんはなおさらだったでしょう。仕事だって人気絶頂で、しかも新しいことに挑戦しようとしていた時期だったから影響は大きかったよね、いろんな意味で。

 そのみんなの心に空いてしまった風穴を埋める追悼の意を込めた歌を作ろうって話になって書いたのがOne loveなんだわ。

 あの歌はレクイエムなんだけど、普通の鎮魂歌とは異なり、視点が残された者たちから宙に旅立っていった彼女に向けられたものではなく、逆に彼女から残されたぼくらへ向けたメッセージになってる。

One loveというコトバはぼくが語ったものではなく、彼女の口癖だったんだ。あの詩には他にも彼女が生前語っていたたくさんのメッセージが含まれてる。

 まぁ、あえていうなら彼女が巫女さんの代わりにぼくのコトバを使ってみんなに伝えたかったことをぼくらの心に刻んでくれたっていうことなのかな?だからあれはぼくの作品というよりは彼女の作品といった方が正しいのかもしれない。

 そういわれてあの歌を聴いてもらえたら、きっともっといろんなことが見えてくる。彼女からのメッセージは、おそらく彼女の帰った場所、そしておそらくはいつかぼくらも帰るその場所とぼくらの世界を結ぶ天に繋がる道なのかもしれない。

 あんなにきれいだった彼女を、こんなにリアルな蝉に重ねて考えるのは一見失礼かもしれないけど、何が言いたいのかっていうとね?つまりは肉体は器に過ぎないって事なんだ。絶世の美女であろうが蝉であろうがおなじ一つの魂をその身に宿している。どちらも最期までひたむきに生き抜いたことに変わりはあるまいよ。まあ敢えてこの両者に共通しているとしたら、ぼくらからしてみればあまりに短い人生だった、てことくらいかな?でもだからといって長く生きればいいってもんでもない。どれだけ長く生きたかってことより、どれだけ充実した時間を過ごしたかってことの方が大切なのかな?充実っていうと語弊があるかな?悩んだり苦しんだりもがいたりすることも意味があることだから、いいことだけじゃなくて辛いことも含めてどれだけ生きているということを実感できたか、ってことなのかな?

 これはぼくにもまだよくわからないことなんだけどね。

 僭越ながら講演とかの機会があると時々「しあわせの絶対値」って話をするんだけどさ、それをこれからここで話そうと思う。ちょっとややこしいからゆっくり考えながら読んでね?

1.まず、いいことが一つあると+1のしあわせ度になるとする。
2.って事は悪いことがあると-1になるわけでしょ?当然そこで立ち止まり続けたらずっと-1。でも人は  みんなしあわせになりたいから努力するじゃない?まずは+1までたどり着こうと思うとする。そして
+1までたどり着くことに成功したとしよう。

 この時1.の人2.の人を比べてみるとそのしあわせ度は一見おなじ+1に見えるよね?だけどよく考えると、0から+1にたどり着くまでの経験値は一つでしかないのに対し、-1から這い上がってきた人は0から
-1、-1から0、さらに0から+1という三つのステップを経験して来ているって事になるんだ。

 おなじしあわせ度+1だとしてもその重みが違うんだよね。だから苦労を知らずに幸福になった人より も苦労をくぐり抜けて幸福になった人の方が経験値が多いだけ幸福の重さ=ありがたみを理解できるし
人の痛みもわかるようになる。

 -1でも絶対値をかけると|1| =1になる。そしてそれはより重みを持つ、これがぼくのいう「しあわせの絶対値」、言い換えれば「しあわせになろうとする心のチカラ」なのかな。

 ややこしくてゴメンね(汗)紙と鉛筆で説明するとすぐわかるんだけどさ。このどちらの+1が重いかを計るしあわせの秤を探すのがViViで連載していた「しあわせの秤を探す旅」のコンセプトだったんだけどね。2年間じゃやっぱり見つからなかったや。そんなもん存在しないのかもしれないし、存在するとしても人それぞれ目盛りが違って当然なのかもしれない、ってのが結論だったんだけどさ。これは最後にまとめて単行本化する話がたち消えになっちゃってぼくが書くことはできなかったから今日試しにここで書いてみた(笑)

 で、その結論から導き出された唯一明確な答え、それは

 「だから人は幸せにならなきゃいけないんじゃないのか?」

 ってこと。幸せになることができればそれまでのすべてが、たとえどんなに辛い過去であったとしても意味を持つんだってこと、なのかな?

 だからぼくは挫折を味わった人にこそ書いてみたいと思うんだ。のどを潰してしまったり、書けなくなってしまったり、プレッシャーから気を病んでしまったり、身体を壊して人気絶頂の最中で休業せざるを得なくなってしまったり・・・

 ぼくの歴史を知ってる人は思い当たる節があるでしょ?誰とはいわないけど、一度は苦渋を味わったアーティストに提供した作品がぼくには多い。「曖昧なぼくの輪郭」も「PRIDE~ぼくの欠片~」も、そういう人たちだからこそ歌える詩。たまたまなのかもしれないし、無意識のうちに自分がそういうアーティストに向っていこうとしているのかもしれない。ぼくにもそれはわからない。

 けれどそのアーティストがそこをくぐり抜け幸せを手につかんだ瞬間、ぼくの役割は終わってしまうという現実、寂しさも思い知った。思うにそれがぼくの第一章だったのかもしれない。

 自分的にはもういまは「そんなこと関係なく魅力的なアーティストなら誰にでも書いてみたい」というテーマを持っていた第2章も過ぎ、第3章に突入してるんだけど、この第3章は敢えていうなら「新しい才能を育ててみたい。まだ自分でも知らない自分を見つけてみたい」っていうのがテーマなのかも。

 果たしてそれが上手く行くかどうか?自信もないし事実決して楽な道のりではないけど、いつも周り道を選んで来たから、たとえうまくいかなかったとしても最期までそれを貫き通そうかな、なーんてちょっとカッコよさげなことを考えさせられてしまうのがこの写真”最期の雄姿”なんだよね。そう思ってみるとこの蝉さん、虫嫌いなひとには申し訳ないけど、なんだか威風堂々とした雄姿に見えては来ませんか?

Kenn Kato