Inside out~もののけ~
                  『Inside out~もののけ~』
小さな小屋の中に閉じ込められた
おびただしいほどの草木
山奥の道で突然途中下車したい衝動に駆られたのは
あの窓の中に棲むなにかが
救いを求めていたからかもしれない
どこまでが外で、どこからが中か?
どこまでが夢で、どこからが現か?
あなたにはわかりますか?


 昨日は散々な一日だった。歌も録り終わり、Editもほぼ終了した楽曲のミックスが終わりかけた途端、Protoolsがフリーズ。復旧したら全トラックからサウンドファイルが消えていた:_:そのまま二人のボイトレのレッスンを終了した後、ブログを更新したはずなのに、今朝開いてみたらアップロードされてなかった。ホンマ、散々な一日やったわ。

 人の心とは不思議なもので、いま書き直してるブログの内容と昨日書いた幻の一ページの内容はまるで違うものになる。ようするにぼくはきまぐれな人種なんだってことだろう。

 デビュー直前や直後のアーティストは精神状態が著しく不安定だ。「いつになったらデビューできるんだろう?」とか「同期がみんなデビューしてるのに自分だけまだできないでいるから焦って落ち込んだり」とか、デビューできても「売れるのだろうか?」という不安に苛まれたり。

 それをなだめすかせながら、本人たちの個性を知り、才能を見極め、それにあった作品を創り歌わせる。ときに怒ったり、ときにほめたり、プロデュースする側の人間はなかなか大変なのである。

 売れたら売れたで手を離れていくものだし、それも当然のことだ。ほとんどの人が生まれてからずっと日本語で生活してきているから、作曲とは違い作詞はすぐ出来るものだと思い込む。勝てば官軍、売れれば立場逆転、そういう意味ではぼくらは逆にヒットさせた後に「しょせんおれらは使い捨てか?」と不安定な精神状態に陥ったりする。

 ところが、そうやってデビュー前後に思い悩んでいる時に作った作品でいきなりブレークしてしまうといったJapanese dreamをぼくはこれまでいくつも目の当たりにしてきた。そして変わっていく人の心の姿をみながら、表に出る怖さを思い知ってきた。ぼくが極端にマスコミから距離を置き続けてきたのは、変わってゆく自分を見たくなかったからなのかもしれない。もちろん咲かずに散っていった才能も無数に見てきたけどね。それは本人だけでなく、いやむしろぼくらの方に責任がある。

 このおどろおどろしい写真は通常家の外にあるべきはずの草木が家の中にあふれかえっているところにある。一見しただけでは外と中の境界線がわからない。草木にも精霊が宿っているから、そんな感覚に襲われたのかもしれない。すぐそばに神社の鳥居があったが目に見えない壁のようなものを感じてくぐることが出来なかった。

 もちろんひとつの楽曲を創り上げるのはぼく一人の力では出来ない。あらゆる役目の人々が、それぞれの立場でその才能と努力を発揮して初めて完成し、そうやってでき上がったいくつもの楽曲の上にアーティストは存在する。しかし、歌詞という部分だけにスポットを当てるのだとしたら、ぼくのような人間の責任はやはり大きいものであることは否めない。

 確かに日本人なら誰でも日本語を使える。けれど日本語を使える=いい作詞が出来る、という方程式は残念ながら存在しない。なにを伝えるかを熟考し、無数にあるコトバたちの中からそれに最適なものを探して拾い上げ、表現方法を選び抜き、メロディーや声、アレンジと溶け合って1+1>2になるようなものにしなければならない。ただ書くだけなら誰でもとはいわずとも大抵の人にはできることなんだけどね。このこだわりは、初めて日本に来た時に日本語を理解することが出来ずに「イジメ」という辛酸を舐め尽くしたその名残のような気もする。

 当然、メロディーを離れてコトバ単体として読まれた時にもしっかりしたメッセージを伝えられるようにぼくはしてきたつもりだ。だからぼくは自分を作詞家、ではなく作詩家と表現する。多くのプロデューサーが言うように詞と詩はおなじものではない。けれどぼくにとってはおなじではないけれどどちらでもある、ということが自分に課せられたひとつのハードルになっているのだ。そしてそれがぼくのプライドでもある。誰にでも書けるけど、本当にいいものはなかなか書けないし、自分にしか書けないものしか書くつもりがない。それを常に意識し、自分を追い込めなければ、有名人でも芸能人でもないちっぽけなこのぼくの曖昧な輪郭なんてあっという間に霧散してしまうのだ。プライドとは他人にひけらかすものではない。生き残っていく上で欠かせない自分自身に課せられた条件なんだ、とぼくは思う。

 もっと残念なことに、読解力ある人はそう多くない。行間に隠された見えない世界を見抜くのは思った以上に至難の業なのだ。けれど創り手に限ってそれがない人が多い。あたりまえだ、音楽業界に従事する人間の数自体が少ないのだからそうそういるわけがない。だからぼくは自分の作品が理解されずお蔵入りになっても落ち込んだりはしない。いつか必ず別の機会で、その世界観がよみがえり、そしてヒットさせてきた。そしてヒットした理由は制作側の感性のハードルをくぐり抜け、世に渡った作品が聴き手に評価されたからだ。創り手の世界で媚びれば世には作品を送り出すことが出来る。でもそこで内容が薄まってしまっては、聴き手の感性に響かせることは出来ない。

 買い手市場の人数は創り手の人数を遥かにしのぐ。当然鋭い読解力や磨かれた感性を持った人の数は音楽業界の人数の比ではないからだ。聴き手の手に渡りそれが評価されて初めてぼくは自分自身に合格のスタンプを捺す。

 そういう意味で、ぼくらはまさに夢と現の狭間に立つ者なのかもしれない。歌が謡いたい、ヒットしたい、認められたい、といったいくつものユメが、ぼくのコトバをすり抜けてゲンジツになっていった。けれど、そこに込められた彼らに対するメッセージがしっかりと伝わることはないとはいわないが多くはない現実もある。外に羽ばたいたものはもちろん勢いさえあればなんでもできるさ。それを否定はしない。けれどぼくのように外に出ないものは、勢いがいくらあったってしょせんアタマの中だけだ。何の足しにもならない。いいものを創り続けない限り生き残れない、That's all。

 あの小屋は、この小さなプライベートスタジオに幽閉されながら、外に飛び出て羽ばたきたいという多くのユメを抱えてあっぷあっぷしているぼく自身のような気がしてならない。そしてぼくはいま、どこからがぼくでどこからがぼくじゃないのか、わからなくなっている。