本日は絶対に忘れてはならない東日本大震災の日。昨日は東京大空襲でこれも忘れてはならないが産まれてなかったので、、、。


幸い動画が比較的一般化しつつあった時期で、スマホはないがガラケーで動画が撮れるようになっていた頃だ。あまりにもグロじゃないものはネットで比較的簡単に見ることができる。


しかしながら、実際は遺体があちこちに転がり、、数日後には臭いでわかるのか、思わぬところから遺体が見つかったと言う悲鳴が聞こえ、遺体安置所には身元不明の大きいものから小さいものまで、また顔だけや足だけ、どこだかわからない肉だけと言う状況で並んでいた。街は異様な臭いを発していた。


私はm3だったと思うが、医療者向けの掲示板サイトで看護師や医師を集め、エルグランドのキャンピングカーの中に薬や物資を詰め込んで遠足のように被災者支援を気取って現地に出かけた。


その後献身的にずっと救護をしてきたような人からするとほんの冷やかしに過ぎないレベルでしか現地で活動が出来なかったと言える。もちろん被災直後過ぎて全く指示系統がうまく動いておらず、暗黒の民主党政権下であり、こういう時のための医師会も思考が停止していた。あの時の無力感。なので私はとても「皆さんのために働きました。いゃ〜大変でした、頑張りました!」なんてとても言えない。嘘つきにはなりたくない。数日働いただけでそれを熱く語るような奴は単なる嘘つきか、自己愛の強い人だろう。


やり尽くした感も満足感も充足感もない。ただただ無力感。僕は常に「被災地に救援物資積んで診察に行きましたが、ガソリンもらいに行っただけですよ、ワハハハ」としか言わないのはそういう理由です。



あの中には1ヶ月もそれ以上も働いてる医師や看護師がいたし、当時医師会の理事をやっており、事務局に「今すぐDMATの結成や命令を待たずに現地入りすべきだ。とりあえず自分一人でも行くので、医師会の名前を使って行政対応にあたらせてくれ」と主張するも、「まあ指示があってからで良いですよ、何かミスがあったらまずいし」という答えで「ミスはお前の判断だ」と失望し、後は自分で行政とやりとりをして行き先を決めた。このことと、今まで自民党にべったりだった1政治連盟が民主党政権になったのに民主党よりになったことにも大変失望をした。僕が医師会の役職を降りた理由はこの二つだろう。石政治連盟断固として入会を拒否した。医師会の先生方が非常に良くして頂き、経験や勉強もさせていただきました。本当に僕の扱いは大変だったと思います。すみません。


さて現地で生き残った人たちも、全く普段と変わらない人から獣のようになる人まで様々でした。警察もいないから逮捕する人もいない。家も資産も全て失った、目の前に金目の物がある、、、。これは試練ですね。人でいるか獣になるか。



建物の上に車や船、飛行機、家の上に何故か家があったり、とにかくわけのわからない光景に驚いたで記憶があります。


特別ルールができて遠方でも訪問診療が可能になり、法人税も現地に事業所作れば払わなく良くなり都内や関西からわざわざ訪問診療をしに来て、莫大な財を築く人もいた。お金のために仕事をした人たちが今どうなったか。たいした人にはなっていません。お金を目的に行動を起こしてもろくな結果を産まないなと実感しました。


東日本大震災は原発のイメージが大きいと思いますが、とにかく津波です。原発の処理にお時間がかかるでしょう。津波による被災は松戸市の機能を取り戻しているようです。しかし被災から数日の津波のインパクトたるや経験した人は絶対に忘れられないでしょう。目の前で子供が生まれていくところや、手をつないでいた妻が気づいたらいなくなりいまだに見つかっていないような方もたくさんいるでしょう。その動画もどこかにあるらしいです。


20,000人以上が亡くなりました。みんな津波に流されてなくなりました。大人も子供も。避難中の学校の生徒丸ごと流されて死んだなんてのもあった気がします。どういうことを思いながら死んでいったんでしょう。またどういうことを思いながら死んでいく家族を見送ったのでしょう。


こんな事は二度と起こって欲しくないと強く思います。災害に備えておくことは非常に大事なことだと実感しています。先日も大きな地震が来ました。タイミングが悪いとまた津波です。


おそらく昨日や今日などは10年前のこの地震についての特集などもあるのでしょう。決して良い記憶ではないのでいずれ忘れ去られるのでしょう。この真実は消して忘れるべきではないと私は思います。



いわきの病院の再生の話があった時、これも運命だと思い二つ返事で引き受けグループ化しました。その他にも2つ3つ被災地の病院の再生の話があった時も迷わず取り掛かりました。