日本のドキュメンタリーは、よくできているものでも、ナレーターの存在が本当に邪魔。気づいていない人が多いかもだけど、海外では、もはや、インタビューを受けた人の生の言葉でつないでいくのが主流で、NHKをはじめとするテレビ局、日本のドキュメンタリー映画の文法は完全に時代遅れ。

考えてみれば、ナレーターが有権的にしゃべっているその言葉は、誰の主観かと言えば、原稿を書いたディレクターや監督で、そこになんの根拠があるのかということ。

ナレーターの声ももっともらしく、あるいは甘ったるくて、気持ち悪い。そもそも、番組の内容にもとともと思いれも特に見識もない人が声で支配しているというフォーマット自体があり得ない。

「映像の世紀」のように、フォーマット上、ナレーションが不可避の場合をのぞいて、日本のドキュメンタリーは、当事者の生の声をつないでいくフォーマットに変えるべきだ。特にNHK。

また、本来は、「映像の世紀」のような番組でも、だれか、歴史学者とか、その内容に思いれや見識がある人が一人称で語るべき。

場合によっては、「電子立国日本の自叙伝」のように、ディレクター自身が出てきてしゃべるのでもいい。

もちろん、番組制作者には意図や構成があるだろう。その包絡線を、自分で原稿を書いてしまってそれをナレーターに読ませるという安易な方法で実現するのではなく、あくまでも取材対象の生の声で構成していくという、海外のドキュメンタリーでは当たり前にやっていることがなぜできないのだろう。

God Delusionのように、Written and presented by Richard Dawkinsのようなかたちで、何年経っても参照されるべきすぐれたドキュメンタリーが日本のフォーマットではできない。

個々の番組制作者の能力は高いはずなのに、単なるフォーマットの慣性の法則で昔ながらのやりかたをだらだらやっているのは、本当にもったいないと思う。

「ノーナレ」が例外であってはいけない。本来、すべてのドキュメンタリーは「ノーナレ」であるべきなのだ。

ところで、制作者がほしいコメントを当事者の生のコメントからもらうために何度も質問するとか、そういうのはやってもいい。つまりはあくまでも生の素材に語らせること。余計なナレーションやナレーターは番組の価値を下げるだけだ。