ウィーンフィルのニューイヤーコンサートで好きなのは、最後のラデツキー行進曲で、指揮者が指揮を放棄して(笑)、観客に向かって恒例の拍手の強弱を指示し始める瞬間。それまでの緊張感がとけて、ああ、これでもう終わりだという華やかな開放感がある。

 

ニューイヤーコンサートに出演するのは言うまでもなく超一流の指揮者たちで、それまで精緻なタクトでウィーンフィルの卓越した音を引き出していたのが、ラデツキーになって急にゆるくなって、指揮を放棄して、それでもオケがちゃんと演奏するのがいい。

 

このところずっと気にしているのが多声(multiple voice)ということで、大学の授業でも、カルチャーセンターの講義でも、シラスの番組でも、とにかくできるだけ多くの人の声が響き合うような場をつくりたいと思う。自分はその指揮者になれればいい。

 

朝日カルチャーセンターはもうそれこそ20年くらいはやっているものと思うけれども、未だに講座のフォーマットが進化し続けている。シラスのあのプラットフォームも、使いこなせるようになってまだ先があると思う。いずれにせよ、鍵になるのは多声である。

 

多声は、社会のあり方を考える上でも鍵なのかと思う。いろいろなところから、いろいろな人の声が聞こえてくるのが良い。そのような場をつくる役割が指揮者なのだとすれば、この社会はまだまだ多くの指揮者を必要としている。識者はそんなに要らないかもしれない。

 

追記。音楽はいい。そして、みんなの声が合わさるからこその音楽である。