昨日、あるきながら喋る「街頭脳ラジオ」でもとりあげたのだけれども、人間というのはそれぞれの欲望のかたちで変わっていくものだと思う。毎日少しずつ、しかし自分が変化したい方向に変わっていく。

 

建前と異なる本音の欲望が見えることがある。探求学習やプロジェクト型学習についてのお話をして、納得していただいたと思っていたら、質疑応答や終わったあとの個別のお話で、わが子を「良い学校」に入れたいというお母さまの欲望が伝わってきてしまうことがある。

 

エイジズムやルッキズムはいけないという「政治的正しさ」にしても、その人が相変わらず若くてきれいな子、若くてかっこいい子が好き、という本音が伝わってくることもある。欲望のあり方が変わらないと、社会は変わらない。

 

日本の都市で、駅前の一等地に塾が並んでいるのも、教育に関する現代的な考え方をどんなに説いても、結局、「良い学校」(それは従来型のペーパーテストで「偏差値」が高い学校だったりする)にわが子を入れたいという親の欲望が根強いからである。

 

家で自分のペースでホームスクーリングをして、知りたいことを学び、そしてゆったりと進学していく。そのような学びのあり方が本当に良いと思い、心底、そのようなかたちでの人生を欲望しなかったら、日本の教育は根幹においては変わらない。

 

しばしば問題になる都市の開発についても、むしろ自然をより増やして、rewildingで森を再生させたいと心の底から願うのか、それとも高層ビルを立ててお金を稼ぎたいと思うのか、欲望のかたちで人びとの未来は変わっていく。

 

かつて、デザイナーの原研哉さんは「欲望のエデュケーション」ということを言った。ひとりの人間でも、社会や国でも、結局、どのようなことを欲望するかで未来は変わってくる。自分自身の欲望のかたちをメタ認知したい。

 

追記。美しい欲望は美しい景色をもたらす。心の中にも、外の世界にも。