私の人生で起こったことの全ては、私の脳の中のニューロンの結合様式として保存されている。

 私が、小学校に初めて行った日、学校に続くまっすぐに伸びた道路の上に太陽の光が白く照り返っていたことを覚えている。

 父兄も見学する「慣らし授業」で、机の上に肘をつき、手の上に顎を載せてぼんやりとしていたら、担任の先生に「ぼく、あきちゃったかな?」と注意されて、顔が真っ赤になったことを覚えている。

 小学校の校門のところに椎の木があって、一時期なぜか椎の実を食べることがはやって、皆で競い合って食べたことを覚えている。

 休み時間になると、緑色のソフトボールを使って、校庭でハンドベース・ボールをしていたことも覚えている。

 どれも、私の人生の1ページだし、私の人生の豊かさの一部だ。そして、そのような出来事の記憶は、私の脳の中に、ニューロンとニューロンの間の結合のパターンとして残されている。今、私が取り出すことのできない記憶も、脳の中にニューロンの結合パターンとしてしまわれている。何らかのきっかけで、私はそのような記憶を思い起こすかもしれないし、あるいは思い出すことは二度とないかもしれない。いずれにせよ、もし、物質としての脳が消えてしまったら、私の人生のそのような豊かな記録も消え去ってしまうだろう。もし、そのような全ての記憶を取り去っていった時に残る「私」というものがもしあるとするならば、それは、無色透明な核のようなものだろう。

 ビートルズの「私の人生」は、次のように歌う。

 

 私の人生の中で、いろいろと思いだす場所がある。

 すっかり変わってしまったところもあるけど

 もう永久に変わってしまって、悪くなったところもある

 いくつかは消えてしまって、いくつかは残っている。

 

 それぞれの場所に、最高の瞬間があった。

 恋人や友人たちと過ごした懐かしいひととき

 死んでしまったやつもいれば、元気なやつもいる。

 

 私の人生の中で、私は彼らをみな愛した。

 

 

 

 

 

 上の歌詞は、単純といえば単純だ。中年男が、夜更けにウィスキーを飲みながら思わず回顧する人生のコラージュのようなものだ。人生の意味は何かとか、生きる目的は何かとかなどという難しい理屈は抜きにして、

 

 ああ、あんなこともあった、こんなこともあった

 

と、過ぎ去ってしまった人生の場面場面を思い出している。

 確かに、「私の人生」の歌詞は、単純だ。だが、ごく普通の人間が、人生について上のような感慨をもらすようになったことの意味は大きい。歌詞の中に、神、天国、地獄、生まれかわりといった言葉が全く出てこないことに注目してほしい。そんなことは当り前だというかもしれない。そう、当り前だが、人間にとって、自分の人生というものが神や天国など関係のない、「現世」的なものになったということが、現代の特徴なのである。現代人にとっては、この「現世」の中での自分の生き様だけが全てで、それに付け加えるものも、そこから引き算されるものも何もないのである。

 開高健は、そのエッセイ集「最後の晩餐」の中で次のように書いている。

 

 推理小説やスパイ小説はまぎれもなく「近代」の分泌物である。少なくともこれまでに判明しているところでは、「近代」のない国ではこれらの知的遊びは生産されなかった。

 

 ビートルズの「私の人生」のような歌も、死後の世界、天国と地獄、人格神といったことに対する迷信がなくなった時代、社会でこそ初めて可能になる。例えば、中世の僧侶が、「私の人生」のような歌を歌うだろうか? そもそも、そんな歌詞は思いつきもしないだろう。(もちろん、いつの時代でも存在する不良たちは別であるが!) 誰でも口にするようなポップ・ソングだが、その背後には、人間の生と死、私たちを取り囲む宇宙についての人間の理解を深めてきた哲学者、文学者、科学者、芸術家たちの血のにじむような努力があった。今では誰でもわかるような当り前の人生観は、世界についての私たちの知識が深まってきたからこそ、当り前になりえたのである。

 宇宙の中には、まだ私たち人類が理解していない世界や私たちに関するミステリーが隠されている。だが、だからと言って、様々な迷信を復活させて、「私の人生」に歌われているような世界から、

 

 おお神よ、私は現世の生活はがまんしますから、死後の世界で豊かに生きられるようにしてください。輪廻転生の中で、次にはより社会的に高い境遇に生まれ変われるようにして下さい

 

というような迷信に逆戻りすることは、せっかくの何世紀にもわたる多くの人々の努力を無にすることになる。

 

 

 私の人生は、この世の素材からできている。私たち人間を取り囲む世界についてどのようなことを考えるにせよ、このことだけは最初に確認しておく必要がある。

 

(茂木健一郎『生きて死ぬ私』より)