小学校5年の時に出会って夢中になった『赤毛のアン』には、今思うととてもいいことがたくさん書いてある。そのうちの一つは、アン・シャーリーが不登校になった時の、周囲の大人たちの反応だ。

 

アンはギルバートとのことをめぐって先生に不当な扱いを受けて、それで学校に行くのがいやになってしまう。学校に行かないというアンに対して、育てているマリラは、無理にいけとか、行った方がいいとか言わない。

 

マリラも、内心ではアンに学校に行ってほしいと思っているけれども、そのことを口にしない。アンが一度言い出したらきかない子だと知っているからだ。アンが家で本を読んだり、勉強したりしている様子をただ見守っている。

 

そのうち、アンの心に変化が訪れて、ある朝、「学校に行くわ」と言った時、マリラは内心小躍りするくらい喜んだけれども、そのことも顔に出さない。アンが自ら学校に行くというまでは、ただ黙って見守り、待っていたのである。

 

子どもの頃は、そんなものかと思って通り過ぎていた『赤毛のアン』のこの箇所だけれども、今読むととてもいいことが書いてあると思う。学校に行きたくない、行けないというアンの自主性を尊重して、もし変わるとしても、そのために必要な心のスペースを与えるマリラの判断は正しかった。

 

子どもも一人の人間であって、その判断や行動を大人がガイダンスすることはもちろんすばらしいことだけれども、同時に自主性を尊重して、自分で決めるための余裕を与える必要がある。アンが学校に行かなくなった時のマリラの判断は、『赤毛のアン』の中でも繰り返し読まれるべき箇所だろう。

 

追記:『赤毛のアン』のような古典は、時間が経つにつれてさらにその意味が深くなっていくように思います。子どもたちにも伝えたいですし、大人になっても、時折読み返したいですね。