現代において学びの機会は無限にあるという問題だが、理論的に言うとこれは強化学習の問題になると思う。とりわけ、自分のコンフォートゾーンと、新しいチャレンジの割合をどうとるかという問題になる。

 

私自身、無限の学習機会をどれくらい活かしているか反省することもある。たとえば音楽で言えばつい好きなものをヘビロテしてしまいがちだが、たとえばバロック音楽を網羅的に聴いてみるとか、Spotify Global Top 50の30位以下あたりを聴いてみるというような学習を十分にしているとは言えない。

 

文学でも、たとえばディケンズを十分に読んでいるとは言えないし、江戸時代の戯作者のテクストを読んではいない。だから、ネット上にさまざまなリソースがあっても、それを活かしきれていないというのは自分でもそうだ。

 

結局、有限の時間をどのように分配して学んでいくかというセンスの問題になるのだと思う。高校の時、畏友和仁陽が繰り返し読んでいると聞いて以来気になっていたダンテの『神曲』は、ついに読み出してようやく『天国編』まで来た。ずっと課題になっているものでさえ学ぶのが遅いこともある。

 

おそらく、学校やカリキュラムということを離れて学びを考えた時に一番課題になるのは無限との向き合い方であって、無限とどのように向き合うかでその人のセンスが問われるのだと思う。たくさんの向かい先の中で、何を選んでいくのか。

 

ゲームをやるのだって、ただ漫然とやるのと、運営側の立場になってさまざまなリソースの配分を考えたり、non-player character (NPC)の動きや役割に注目していろいろ考えるのとでは、学びが全く違ってくると思う。無限に向き合う時には、学びにおける心の持ち方が問われる。