日本の学びのかたちで素晴らしいものはたくさんあるが、中でも「素読」は良いと思う。意味がわからなくても、とにかく厳選されたテクストを読む。漢籍で言えば「論語」とか「詩経」とか「大学」とかを読む。そのことで、リズムやボキャブラリが脳に叩き込まれる。

 

「シラス」では、夏目漱石の素読もやったが、このところ英語のテクスト、James JoyceのDublinersの素読をしている。ところどころ補足、解説したり、広がるテーマについて議論するけれども、基本的にはJoyceの書いた文章をみんなで読んで味わう。そのことによって何かが蓄積していく。

 

「素読」の良いところは、必ずしも「意味」からは入らない点だろう。この単語の意味はなにか、この文章の意図するところはどこかと考えるよりも、とにかく文字列を頭に叩き込む。そのことによって、人工知能で言えば、next token predictionのような確率学習も進む。

 

素読で大切なのは、テクストを厳選すること。価値があることが評価として確立している古典を読む。そのことで、意味を経由しないで身体に染み込んでいく内容が、自分の生きる糧になることがいわば「保証」される。

 

James Joyceが最初に出版社に原稿を持ち込んでから9年かけて出版されたDublinersは、その文学史上の価値が確立している他、凄まじく賢い書き手による時にひんやりとする厳しい人間洞察、そして各短編に訪れるepiphany(気づき、啓示)の瞬間が読んでいて存在の根底を揺るがす感動となる。

 

私自身、Dublinersをシラスの塾生さんたちと素読していて毎回たくさんの気づきがある。やりとりを通して、こちらが学ぶこともたくさんある。ネットという環境が整った現代において、「素読」は最高の学びのかたちの一つなのではないかと思う。