アメリカでは、連邦最高裁がバイデン政権の学生ローンの免除を無効と判断して大騒ぎになっている。トランプさんがインストールした「保守派」の判事による一連の判断は困ったものだと思うが、それとは別に、そもそも教育にお金がかかるという前提について考えてみたい。

 

現代では、ほとんどの学術情報はインターネット上に公開情報として存在している。論文も読めるし、英語を学ぶ素材も無數にある。したがって、本来、インターネットにアクセスできる環境と機器があったら、学びは限りなく無料でできるはずである。

 

ayPalのFounderのPeter Thielは、大学無用論者として有名である。ハーバードなどは年間数百万かかるわけだけれども、それと同じクオリティの学びを限りなく無料で実現することは原理的には可能だと思う。そのためにはどうすればいいかを探求するのはグランドチャレンジではないか。

 

韓国では入試問題でわざと難問を入れてそれを対策する塾産業が隆盛しているらしいが、日本の中学入試でも似たような構図がある。しかし、中学入試は問題が公開されているので、受けるとしても、塾にいかず自分で勉強して無料で合格することも原理的には可能なはずである。

 

なぜ、学術情報にしても、入試問題にしても、公開されているのにそれに基づいて(ほぼ無料で)学ぶという習慣がもっと広がらないのか、これは興味深い問題だと思う。大いに研究する必要がある。コミュニティや社会的認知、身体性の問題が関係する可能性がある。最初から無理だと思わない方がいい。

 

もし、たとえお金がなくても、公開情報で学ぶノウハウやベストプラクティスが確立すれば、多くの人がその恩恵を受けるだろうし、社会にとっても良いことになる。また、経済格差が教育格差につながるという社会的な課題も解消されることになる。

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それにしても、時々不思議に思うのは、今どき、例えば「量子コンピュータ」というキーワードに偶然に出逢えば、そこから、ネットで関連する情報を知ることはできるし、何を勉強すればいいのかわかるはずなのに、誰もが必ずしもそれをするわけではないという問題である。

 

「良い学校」、「すぐれた大学」に行くことは、カリキュラムや周囲の影響もあって、学びに本気になる一つの安易なルートなのだろうとは思うが、唯一の方法ではない。どうしたら、どんな環境でも、無限にある公開情報から学ぶことに本気になれるのか、理論的、実践的に探求する意味は十分にある。