茂木健一郎

 

 フランシスコ・デ・ゴヤの作品を初めて身近で見たのは、マドリッドのプラド美術館でのことだった。もう二十年くらい前のことである。

 作品の並び方はひょっとしたら今は変わってしまっているかもしれない。過ぎしあの日、入ってすぐにヒエロニムス・ボスの『快楽の園』を見て、衝撃を受けた。それから、じっくりと作品を見て回った。ベラスケスやエル・グレコやらを大分見た後で、ようやくゴヤの作品幾つかにたどり着いたように記憶する。

 プラド美術館は趣味が良い。一連の流れのうちに、最後の方にゴヤの作品を見て、そんな印象が私の中で確立したのである。今まで見てきたような作品を評価し、陳列しようとする美術館の審美眼は、信用に値する。そんなことを、ゴヤの作品を見ながら思った。確か、『着衣のマハ』、『裸のマハ』の前あたりではなかったか。

 なぜ、その時の私は、プラド美術館のラインアップを「趣味がいい」と思ったのか。その理由を、奇しくも最後にたどり着いた『着衣のマハ』、『裸のマハ』の間の対照に託したい。

 ゴヤの作品の一部、とりわけ『我が子を食らうサトゥルヌス』に代表される一連の「黒い絵」は、恐ろしい。なぜ恐ろしいのかと言えば、その理由は、私たち自身に求められる。

 これらの絵の中にある恐ろしいモティーフは、私たちの心の中に巣くっているのである。我が子を食らうサトゥルヌスの目を背けたくなるような恐ろしい姿は、私たち一人ひとりの内面の中にある自身の映し絵でもある。人間の脳の前頭葉にあるミラーニューロンは、鏡に映したように自分と他者を表現する。恐ろしい者の姿を見て、私たちの心が揺れるのは、すなわち、私たち一人ひとりの中に、震撼すべき魔物が潜んでいるからである。

 誰でも、自分の中に魔物がいるとは思いたくない。だから、社会の洗練はそのような魔物を隠蔽することを要求する。服を着て裸体を隠すように、上品で優美なものを前面に出して、容易に克服できない恐ろしいものの姿は、あえて見ないようにする。そのように取りはからうのである。

 ところが、そんなに簡単には行かない。ジークムント・フロイトの先駆的な仕事が示したように、私たち一人ひとりの無意識の中に、簡単には制御することのできないさまざまな欲動や、不安、恐怖がある。これらの感情の生きものは、抑圧しようとするとかえってその主の精神的健康を脅かす。その存在を認識し、かといって囚われてしまうことなく淡々と寄り添うことで初めて、私たちは内なる魔物払いに成功するのである。

 ある種の絵画は、私たちにとっての魔物払いの儀式の方法論を与えてくれる。ゴヤの絵は、確かに恐ろしい。しかし、そのような絵を書いたり、好んで眺めたりする人が恐ろしい行動に出るわけでは決してない。人間の内面の暗黒を描いた絵を愛することを知っている人はかえって、隣人たちに調和を持って接するために必要な精神のバランスを回復することができるだろう。

 ゴヤの絵に惹き付けられ、それを飽かず眺める人は、自身の無意識に正面から向き合う勇気を持っている。昔日、私がプラド美術館の収蔵作品群を「趣味が良い」と感じた理由は、そこにあるのだろう。

 『着衣のマハ』と『裸のマハ』の対照。着衣であることにこだわる人は、かえって裸というものを神秘化し、過剰な力を与える。裸と着衣の間を自由に行き来する人にして初めて、裸身に対する興味本位の視線から解き放たれて、その芯にある人間そのものを愛する術を手に入れるのである。

 ゴヤは、人間そのものを愛そうと努めた人だった。

『モナ・リザ』に並んだ少年: 西洋絵画の巨匠たち (小学館101ビジュアル新書)より