子どもの頃、図書館で借りて来て『フランダースの犬』を読んだ。

 画家になることを夢見る貧しい少年、ネロが、愛犬パトラッシュとともに暮らしている。ネロが住むのは、フランダース地方、アントワープ郊外の村。アントワープ大聖堂には、あこがれの巨匠ピーテル・パウル・ルーベンスの名画が架かっている。貧しいネロは、その見物のための料金を払うことができない。

 ネロは、何とか大好きな絵を通して人生の道を切り開こうとする。しかし、思うに任せない。

 物語のラストシーンは、あまりにも有名。クリスマスの夜、大聖堂の扉が開いている。中に入ったネロとパトラッシュは、夢焦がれたルーベンスの名画をついに目にする。十字架の上のキリストや、昇天するキリストを描いた傑作。それらの類希なる絵を見るネロの心は、どんなにか深い幸福感に満たされていたことだろう。

 クリスマスの朝。冷たくなったネロとパトラッシュを発見した人々は、ふたりの表情が穏やかなことに心打たれる。

 物語の含意というものは、すぐにはわからないもの。子どもの頃夢中になって読んだ『フランダースの犬』を再読すると、「絵画」というものの精神的な価値の大きさに心打たれる。

 たった一枚の絵の中に、人は世界を託すことができる。託そうとすることができる。キャンバスの上に絵の具を置いていく。その単純な行為の繰り返しを通して、人はそこに審美心や価値観、宗教的愉悦をさえ込めようとする。そこには、人間にとって、この宇宙は完全なるものとしては存在しないという厳しくも切ない認識があるのかもしれない。

 貧しかったネロ少年にとって、絵画はどれほどの救いになってくれたことだろう。自分の人生の苦境が、絵画を通して切り開かれると信じた。そのために努力をした。不幸にして、その思いは成就するに至らなかったけれども、絵画のことを考えている間、ネロ少年は幸せだったことだろう。ラストシーンの、ネロ少年とパトラッシュの口元に浮かぶ微笑みが、そのことを示している。

 ネロ少年の物語は、私たち誰にとっても親しみのある、等身大のもの。そこにおける精神の機微は、ルーベンスのような巨匠にも通じる何かを表している。

 人は、この地上における生が必ずしも幸福なものではないからこそ、絵画を描こうとする。それを観賞しようとする。すべてを吸収し、自分のものにしようとする。

 ルーベンスとピカソ。ラファエロとモネ。一見、歴史的にも審美的にも大きく隔たっているかに映る絵画たちが、同じ人間愛と窮乏からの跳躍によって裏付けられている。 

 『フランダースの犬』において残念なのは、ネロ少年がルーベンスの傑作を目の当たりにするのが、その短い生涯が終わりに近づいた時だったということ。もし、もっと早く見ていたら、画家になりたいというネロ少年の夢も、大きく膨らむ機会を得たかもしれない。

 絵画は、私たちに多くのことを教えてくれる。美しさについてだけではない。この世の醜さや、怖ろしさや、深さについても学びの機会を与えてくれる。そして何よりも、「生きる」ということがどのようなことなのか、かけがえのない気付きを与えてくれる。

 絵画というものに対する、ネロ少年の情熱。あこがれのルーベンスを、ひと目見たいという願望。

 その切なさを想い、感染した時、人はもう西洋絵画の巨匠たちの事蹟をめぐる旅への出立の支度を完了している。

『モナ・リザ』に並んだ少年: 西洋絵画の巨匠たち (小学館101ビジュアル新書)より