朝日新聞の「川柳」の問題だけど、ぼくは言論の自由は大切で、このことで批判しようとは思わない。


 ただ、川柳についてぼくが抱いているイメージと、あの作品群は違う。


 何が違うのかなと思って整理してみる。


 川柳は、江戸時代の柄井川柳に由来するそうだけれども、「川柳」という名前が見事に体を表している。


 つまりそれは川の柳のようにやわらかに、風が吹いてきても受け流す庶民の知恵なんじゃないか。

 安倍晋三さんを国葬にするとかしないとか、そういうことは政治で決めるかもしれないけれども、それが自分たちの生活にどうかかわるか。


 生活防衛の知恵や、日々の営みの中から、「上で決めていること」をやわらかく川の柳のように受け流すのが川柳の本筋である気がして、その中で野暮を嫌い粋をよしとし、やわらかなユーモアのセンスを尊ぶという美意識が出て来るんだと思う。


 今回話題になっている作品群は、どちらかというと国とかそういうものにガチでぶつかっていて、いわゆる権威ある知識人的な匂いがある。


 自分を国家と対等の場所に置いている気がする。そういうスタンスがあってもいいけど、それはここで述べている川柳の立ち位置とはちょっと違う。


 文章も結論も、随分硬質で、視点も、庶民とか世間というよりもちょっと上に置いているように思う。そこには川柳はあるのかなと思う。


(クオリア日記)