(雑誌「モモト」に掲載された文章です。2014年12月執筆)

沖縄の祈りのかたち

 

 茂木健一郎(脳科学者)

 

 沖縄に行くたびに、至るところにある「祈り」の気配に心打たれる。

 散歩をしていると、集落の外れなど、木に囲まれて、気持ちの良いところに、「御獄」(うたき)を見いだすことがある。入ってはいけないところだと聞かされているので、外から、その様子をうかがう。そのようにして見える部分だけからも、きれいに清掃されていて、大切に整えられていることが伝わる。

 祈りとは、生きることに対する感謝であり、過去へのまなざしであり、未来に対する願いであろう。そのような心のありようを、ずっと大切にしてきた沖縄の人々を、私は心から尊敬する。

 世界遺産に指定されている斎場御獄は、もう十度以上訪れているだろうか。ここは、限りなく美しい聖地である。いちばん奥まった場所に、三庫理があって、そこから、久高島を遙拝することができる。

 自然のままで、何も付け加えることなく、取り去ることもない。そのような斎場御獄のあり方に、沖縄の生の哲学、自然に対する態度の、もっとも清らかな部分が表れているように感じて、私は、斎場御獄に身を置く度に、心の芯が震える思いがあるのだ。 

 いつだったか、訪れた際に、黒い翅に白い帯が鮮やかなシロオビアゲハが、斎場御獄のあちらこちらに、ひらひらと飛んでいた。それを見たときに、それらの蝶が、亡くなった方の魂そのものだということが、何の疑問もなく直接的に体感されてしまった。

 それは、かつて、小林秀雄がそのベルクソン論『感想』の冒頭で、飛んでいる蛍を見て母親の魂だと直覚する、その場面にも似て、そのようなことが起こるのが、「聖地」の力だと思う。街中でシロオビアゲハを見ても、キレイだなとは思っても、同じような気持ちにはならないのである。

 斎場御獄の中には、丸い池があって、説明には、沖縄戦の時の米軍の砲弾の跡だとあった。時が流れ、今では穏やかな佇まいの水面を見ていると、そのような傷跡でさえ静謐さの中に受け入れてしまう聖地の懐の深さが、申し訳ないようであり、有り難くも感じられるのである。

 斎場御獄は、本来は男子禁制の場だということは心得ているから、訪れる時は、どうしても、息遣いまで静かで、控えめになる。

 沖縄の御獄、その祈りのかたちを思う時、心の中にわきあがる、畏れと憧れ、そして喜びの気持ち。それは、現代において、本当にふしぎで、希なことだといつも感じている。