「歴史に学ぶことが大切」ということは一般論としては正しい。

 しかし、現代の文脈においては、「歴史過剰」が弊害を持つケースがあると思う。


 一般に、「正しい」歴史認識を持てばさまざまな状況での価値判断、選択を誤らないという前提があるように思う。


 しかし、往々にして、立場によって何が「正しい」歴史認識なのかは違う。


 「歴史修正主義」という言い方は、「正しい」歴史認識があって、それを否認することを通常は含意しているようだけれども、たとえ、そのような「正しい」歴史認識があったとしても、それを現代のメディア状況、政治状況ですべての政治家、当事者に要求することは実際的に難しい。


 また、歴史について学問的な緻密性を追求すれば、一つの歴史観に収束(convergence)していくという前提も、原理的にも実際的にも怪しい。


 結局、今回のプーチン大統領によるウクライナ侵攻のようなことが、ある歴史観によって支えられるということが起こりうる。


 「正しい」歴史という前提も、歴史修正主義という非難も、学問的に収束する歴史観という前提も、今回のような事態を防止することはできない。


 むしろ、人権や自由といった現代的な価値観をしっかりと根付かせる方が、歴史に過度に依拠するよりもよりよい社会の構築と維持に資すると私は考える。


 ロシアとウクライナの間の歴史についてどのような立場をとるかという精査よりも、単純に、他の主権国家に軍事侵攻してはいけない、意見の違う相手に自分の意見を力で押し付けてはいけない、他人の財産や生命をおびやかしてはいけないという現代において当たり前の価値観を遵守することの方が、今回の事態を抑止できたことだろう。


 むろん、これらの価値観が歴史的にどのように獲得されてきたかの知識は大切だが、第一義的に重要なのは価値観そのものである。


 また、現代的価値観を支える基盤についての諸学も大切である。


 差別や偏見がどのように生まれるかということについての社会学的、認知科学的知見や、「敵」「味方」の区分を生むメカニズムについてのタジフェルの最小条件集団の研究、フェイクニュースなどの拡散、受容についてのネットワークサイエンスの例が上げられる。


 このような状況を全体としてとらえれば、「歴史に学ぶことが大切」という一見正しいように見える言説は原理的にも実際的にも無条件には成り立たず、むしろ、今回のプーチン氏の事例に見られるような「歴史過剰」の弊害を警戒すべきだと私は考える。


 一例を挙げれば、「従軍慰安婦」についての「正しい」歴史観の追求や、「歴史修正主義」の批判、学問的追究による歴史観の「収束」を目指すよりも、人権やジェンダー、人間の尊厳についての現代的価値観の共有、それに基づく判断の方がよりよい結果をもたらすと私は考えるものである。むしろ、歴史的議論の重視こそが、問題の本質的な解決を難しくしているように見える。


(クオリア日記)