羽生結弦選手がすぐれたアスリートであることは疑いない。

 ソチ五輪、平昌五輪と二連続の金メダルに輝いている。

 

 しかし、北京五輪をふりかえって思うのは、羽生結弦選手はすぐれたアスリートであるとともに、あるいはそれ以上にすぐれた芸術家、アーティストであるということだ。


 そして、本来、アートは採点やメダルといった基準で評価されるものではない。


 五輪二大会金メダルは偉業だが、メダルなしに終わった北京五輪の羽生結弦選手のスケートを見た心に残るのは、圧倒的な芸術の感動である。その芸術の圧と熱においては、今回の金メダルのネイサン・チェン選手よりもむしろ上回っていたと思う。


 そもそも、芸術に点数などつけられない。

 フィギュアスケートという競技はその点に本質的な矛盾をかかえており、その矛盾というリンクの上で、羽生結弦選手は魂の演技をしてきたのだと思う。


 羽生結弦選手の情熱(passion)はどこからくるのだろうか。


 passionは、ラテン語のpassioに由来する。passioは受難を意味する。キリスト教においてはイエス・キリストのたどった困難な道がpassioであり、それにインスパイアされた名曲がバッハの「マタイ受難曲」である。


 情熱は、受難からくる。


 スケートのリンクの上で東日本大震災に遭遇し、数々の故障に悩まされながらもスケートという道を探求してきた羽生結弦選手ほど、困難=情熱=passionという言葉がふさわしい人はいるだろうか。


 芸術家としての羽生結弦選手の演技の与える感動は、その困難=情熱=passionに由来するのである。


 英語の動画↓


The secret of the passion of Yuzuru Hanyu.


https://www.youtube.com/watch?v=UU35ahfowgA


(クオリア日記)