『クオリアと人工意識』質疑応答

 

ご質問


知財屋さん


茂木さん

まさに「あとがき」に書かれてたように、エピローグでの「私」の「自己意識」についての結論にびっくりした者です。
そこで質問なのですが、タケシが語った質問、すなわち死んだら意識はどうなるのか?、の答えは、この本で茂木さんが提示された考えによるとどうなるのでしょうか?
本の内容からは、人の意識は生まれるとともに立ち上がり、死んだら二度と戻らないのではなく、「純粋記憶」に対応する意識については、死んでもなくならない、というか、元々自然界に唯一のものとして存在していて、人が生きるとともにそれを認識し、死んだら認識しなくなるものの、存在は残っている、というもののようにも読めますが、正しいでしょうか。
いかにも素人質問で恐縮ですが、多くの方が同様な疑問を持っているとも思います。
上記説明頂ければ幸いです。


ご回答。


さすが、知財屋さん、最も本質的なところを読んでくださって、またそこについて疑問をお持ちくださり、ありがたく思います。


そして、知財屋さんのご質問を読んで、気をつけないといわゆる「ネタバレ」になることに気づきました(笑)。


この問題は、もちろん、最終的な答えが現時点であるわけではありませんし、まだまだ考えるべきことがたくさんあるように思います。


その上で、純粋記憶の例として、知財屋さんが子どもの頃、どんな思い出でもいいので、鮮明に残っている記憶を思い出していただきたいのです。


その時、知財屋さんが感じていたクオリアの生々しい総体が存在したという事実は、「今、ここ」の知財屋さんの脳の中で、その記憶がシナプス結合として残っていることで余剰なく説明できるのか、それともできないのかということについて考えていただきたいのです。


この問題は、時間の経過の謎、自己意識の謎と深く関係するものと思われます。


『クオリアと人工意識』は、そのあたり、敢えて余韻を残して読者に考えていただくような設計になっています。


ぜひ、知財屋さんご自身で思索を深めていただければとてもうれしいです。



『クオリアと人工意識』(講談社現代新書)についてのご質問がありましたら、是非、下のブログのコメント欄にお書きください。


https://lineblog.me/mogikenichiro/archives/8446103.html


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