連続ツイート2569回をお届けします。文章はその場で即興で書いています。本日は、感想です。


ネットフリックスで話題騒然の『タイガーキング』は、本当にそんなことがあるとは信じられないひとたちのことを描いたドキュメンタリーだけれども、一つ、重大なことがある。それは、物語の「音声」が、すべて、当事者の発言だけで構成されているということである。


もちろん、一つのストーリーはあるのだけれども、『タイガーキング』は、あくまでも実際の人物たちの一人ひとりの生の肉声だけで構成されていて、それ以外のナレーションとかが一切ない。これが、現代における良質のドキュメンタリーの文法であるように思う。


先日、アマゾンプライムで見た、『同じ遺伝子の3人の他人』も、とても良質なドキュメンタリー映画だったが、この映画も一切ナレーションはない。最初から最後まで、インタビューを受けた人たちの生の肉声だけで構成されている。


日本の大切な公共放送、NHKの番組について、いろいろ要望はあるのだけれども、民放と区別のつかないバラエティとかはもう置いておくとして、NHKの「良心」であるはずのドキュメンタリー番組について、その作り方が、いかにも古くなっている気がするのは以上のポイントに象徴される番組つくりの方法論。


NHKのドキュメンタリーは、ディレクターの書いたナレーションをナレーター(アナウンサーが多い)が読むかたちで進行することが多いけれども、このやり方がもう古いと感じる。『タイガーキング』や『同じ遺伝子の3人の他人』のような、当事者たちの生の音声だけで構成される番組が見てみたい。


なぜ、ナレーターが読むナレーションで進行するドキュメンタリーが古いと感じるかというと、それが一つの解釈を押し付けるように見えるからである。もちろん、番組の取材、編集において制作側の意図、解釈はあるけれども、それは、撮れた素材(映像やインタビューの音声)を通して語らせるべきだ。


ドキュメンタリーには、マイケル・ムーア監督の作品のように、ナレーションをすべてある人物が責任を持って書いて、それをその人物自らが読むという形式のものもあって、それはそれで成立する。リチャード・ドーキンスの『神は妄想である』のドキュメンタリーもそのような形式でつくられていた。


素材そのものに語らせ、インタビュー音声のみで構成して、余計な意味付けをしないか、作家性を持って、一字一句ある人物の責任において書かれたナレーションを、本人が読むか。現代の良質のドキュメンタリーの文法はどちらかだと思うけれども、NHKの番組は残念ながらそのどちらでもないことが多い。


結局、素材そのものでもなく、作家性を持った血肉のかよったコメントでもなく、製作者が書いたある一つの解釈をアナウンサーのような人がナレーションを読むかたちで構成するから、NHK制作のドキュメンタリーは「bland」(陳腐な)印象を与える。残念なことである。


以上、連続ツイート2569回「NHK制作のドキュメンタリーが、bland(陳腐)な印象を与える理由」をテーマに9つのツイートをお届けしました。

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