ぼくが通っていた頃の東京学芸大学付属高校は、毎年、「辛夷祭」で自分たちでオペラを上演していて、ぼくが二年生の時にやったのがウェーバーの『魔弾の射手』だった。


 オーケストラや指揮も自分たちだし、ドイツ語からの翻訳も、ソリストも合唱も、演出も衣装もぜんぶ自分たちでやった。


 畏友、和仁陽さんがドイツ語から日本語への訳詞と総合演出を担当して、ぼくは和仁さんといっしょに照明をやった。


 主役のマックス役を歌ったのが、安永達史さんだった。

 

 『魔弾の射手』は、道に迷い、一時は悪魔に魂を売り渡しそうになっても、最後は恋人、アガーテの愛によってまっとうな道を見出す青年マックスが主人公で、安永さんはその役にぴったりだった。


 生きる道を迷い、暗闇の中を彷徨し、やっと愛の光明を見出す。そんな青年マックスの役を、安永さんは全力で演じた。魂と熱の歌唱だった。

 

 第三幕のフィナーレ。マックスのひたむきさ、純粋さと、安永達史さんのおおらかさ、人を大切にする気持ちが、ほとんど同一化するように見えた。

 その時、高校の講堂が奇跡の降臨する場所となった。


 高校三年間の思い出の中でも、『魔弾の射手』の上演は輝きに満ちた、特別なものである。

 その真中にマックスの安永さんがいた。


 安永さんは、その後、北海道大学に進んだ。いろいろ仕事をされた後、歌手の道を選んだのは、辛夷祭のあの経験もあったのかもしれない。


 時が流れ、ぼくは、シャンソン歌手、髙木椋太になっている安永さんと再会した。

 髙木椋太さんの草月会館でのコンサートに行って、そのステージでお話をさせていただいた。

 久しぶりに見た安永さんは、立派な歌手、スターの、髙木椋太さんになっていた。


 歌の技術が上がり、ステージのカリスマ性やスターとしての魅力が磨かれても、そこにいたのは、高校の時にマックスを演じていたのと同じ、純粋でひたむきで愛に満ちあふれた安永さんだった。


 そのあとも、折りにふれ、安永さんと歌のことや人生のことについてやりとりをした。


 これから、安永さんの歌がますます深まり、人生のこと、生きること、人間のこと、日常のふとした思いのこと、いろいろと表現し、伝えてくれるものと信じていた。安永さんの歌を聞くのが楽しみだった。


 それが、突然、断ち切られた。


 安永さんが新型コロナウイルスの感染症で亡くなったという知らせを聞いたとき、まっさきに思ったのは、「嘘だろう」ということだった。

 

 あんなに元気で、歌手としてコンディションにも気を使って、心身ともに健康だった安永さんが。。。


 どうやらそれが事実らしいとわかるにつれて、言いようのない悲しみ、喪失感、そして持っていきようのない憤りのようなものを感じた。


 安永さんがここでこの病魔に倒れて亡くなるなんて、「不条理」という言葉しかない。


 一体、この病気は、何ものなのか。


 新型コロナウイルス感染症は、風邪のようなものではないし、普通のインフルエンザのようなものでもない。


 安永さんがその犠牲になるということは、誰でも、病魔に倒れて、重い症状になり、そして場合によっては亡くなってしまうということである。そのようにしか思えない。


 この病気だけは、油断してはいけない。誰でも、かかったら、未だ解明されていない体質と、ウイルスとの相性と、その他もろもろの「複雑系」としか言いようのない進行で、症状が悪化して、亡くなってしまうこともある。


 未だ、安永さんが亡くなったことが信じられない中、私たちはなんとかこのウイルスがもたらした困難を乗り切らなくてはいけないのだと改めて思う。


 今、私の心の中には、辛夷祭でマックスを歌い上げた時の、安永さんの輝くような笑顔がある。


 この状況なので、みんなが集まる葬儀はできないけれども、後日、「お別れの会」を開くとのこと。


 生前のご厚情に心から感謝し、受け取ったたくさんものを思い出し、安永達史さんのご冥福を、心からお祈りいたします。

 

 安永さん、本当に、ありがとう。そして、ゆっくりおやすみください。


 ぼくたちが高校二年の秋、辛夷祭、『魔弾の射手』のフィナーレでの、安永さんのマックスの歌唱、決して忘れません。。。


 あの瞬間は、永遠です。


 天国の安永達史さんへ


 茂木健一郎


 追伸。あのときのぼくたちのステージの記録は、もしあるのだとしてもぼくにはわからないけれども、あの時の上演のかわりに、マックスとアガーテとみんなが歌う、あの素晴らしい『魔弾の射手』のフィナーレの音楽を捧げます。


(1時間58分16秒あたりから)