2020年1月7日、朝8時、上野駅から特急ひたちに乗った。


 いわき市まで、約2時間半。

 いわきには、私のおじさんが住んでいる。

 仕事で、福島に縁が出来てそのまま住んだ。

 若いときには浪江町に住んでいて、訪ねていったこともある。


 いわきで乗り換えて、さらに普通列車で常磐線を北上して、富岡駅まで行った。


 プラットフォームに降り立つと、北国のひんやりしとした空気に包まれた。


 そこから、バスに乗って、東京電力廃炉資料館(http://www.tepco.co.jp/fukushima_hq/decommissioning_ac/)へ。


 震災前につくられていた建物を改装して、昨年の11月にオープンしたのだという。

 アインシュタイン、キュリー夫人、エジソンという、電気に関わった偉人3人の生家を合体させたデザインになっている。


 中に入ると、緊張感が張り詰めた空間が広がっていた。


 資料館は、数多くの映像資料を含めた構成になっていて、ぜんぶ丹念に見ると二時間半かかるという。


 決して忘れることのできない2011年3月11日の東日本大震災。富岡駅の北10キロ余りに位置する福島第一原発にも、15メートルに迫る大津波が押し寄せた。


 その結果、電源が失われ、核燃料がメルトダウンし、発生した水素による水素爆発が起こって、一号機、三号機、四号機の建屋が破壊された。


 放射性物質が近隣の地域に放出され、住民の方々が移転を余儀なくされるなど、甚大な被害が生じた。


 廃炉が決まった福島第一原発。事故の経緯や、廃炉のプロセスを伝える映像資料は、ここまで詳しく、真摯にと驚くほど細かいところまで行き届いたものだった。


 電源を津波の浸水が予想される高さよりも高いところにおくなどしておけば、あれほどの大惨事は避けることができた。


 原発の「安全性」に対する過信、神話があったということを詳細に振り返り、検証しているビデオからは今の東京電力の真摯な姿勢が伝わってきた。


 過ぎ去った時間は、もう帰って来ない。


 資料館を出て、いよいよ福島第一原発へと向かう。

 富岡町の原発周辺のエリアは、私たちが通る主要道路以外は帰還困難区域に指定されている。


 ここから帰還困難区域、という場所に係の方が立っていて、交通をチェックされている。

 そこから先は、二輪車、自動二輪車、歩行者の通行ができない。


 道の両側に、あの時以来放置されたままの建物が現れる。


 窓ガラスが割れたり、草が生い茂ったり、建金属がさびたり。


 ある店の前の大型駐車場に、二台、車が放置されたままになっていた。


 どういう経緯で、誰がここに車を置いたまま去っていってしまったのだろうか。


 それぞれの車のまわりに、トラフィックコーンが4つずつ、律儀に置かれていた。


 家々の入り口には、帰還困難区域を示す鉄柵が設けられていた。


 住人の方は、事前に許可を得て、片付けなどのために年に何回か戻ってくることができるということだ。


 道は帰還困難区域をずっと通っていく。

 もっと無人地帯を想像していたのだけれども、驚くほど人の数が多い。


 あちらこちらで、工事が進行し、人々が作業をしている。


 通常の地方の道、田舎の景観よりもむしろ人の密度が多いほどだ。


 帰還困難区域の中で除染作業などに従事している方々が多いのだろう。

 

 道のところどころに、その地点での放射線量を示す電光掲示板が現れる。


 途中、道の両側に雑草が生え、低木が茂っているエリアが現れた。震災前は、水田だったのだという。

 かつての田んぼは、帰還困難区域になってから放置された年月の中で、次第に自然に還っていっていた。


 人が立ち入らない広大なエリアの中で、田んぼや、建物、停まったままの自動車が、だんだんと草や木に囲まれていく。


 そして、あちらこちらで人々が除染作業をしている。


 ここを右折すると、福島第一原発だという信号のところまで来た。


(続く)


(クオリア日記)