1077回


くるくるパーチクルさん


36歳。男。

先日、理解に困難を抱えている事について相談した者です。
その際、「ローカルミニマムな解答に満足せずに先に行こうとしている」という主旨の解答を頂きました。
確かに自分はそういう傾向があると思います。しかし、思うように先に行けていないというか、その為にリソースを割いたとしても、得られる新たな解答がトリビアルである事が殆んどなのです。

できれば有用な解答を得られるようにして、効率的にリソースを消費したいのですが…クオリアそのものは評価の対象にならない性質を鑑みた場合、それは望み過ぎだと思います。

そもそも得られたクオリアがトリビアルであるかどうかを決めるのはなんなのでしょうか?
そのクオリアの理解度についての、他者との有意義な議論に使えるかどうかなのでしょうか?
それとも、他人は関係なく自分が納得できるかどうかなのでしょうか?しかし、自分が納得できたからといって、他者との議論に使えなければ、それはトリビアルな情報に過ぎないのではないでしょうか?

「理解できない時点で、理解するのに必要な方向は把握できている」との事ですが、自分には必要な方向は把握できているとは思えません。
やはり、より深い理解を目指すにあたって、リソースの浪費を避けたいというのは、ムシのいい話に思えてしまいますが実際のところどうなのでしょうか?

ご意見たまわれれば幸いです。


ご回答。


理解するということがなかなかできないときに、考えたり、模索することは大切ですが、その際、そのプロセスこそがいちばん意義があるのです。


その結果得られる新しい理解が満足できるかどうかということは、二次的なことだと思います。


思考の運動は、それ自体が生きるということで、フロー理論によれば、それ自体が目的であり、よろこびとなります。

nounandemo
 
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