俳優座 インコグニート

脚本:ニック・ペイン

翻訳:田中壮太郎

演出:眞鍋卓嗣

出演:

安藤みどり

志村史人

保亜美

野々山貴之


https://haiyuza.net/performance/incognito/


2018年11月21日の舞台を見た。


ロンドンで時々演劇を見ることがある。シェークスピアやベン・ジョンソンはもちろん、それ以来の厚い伝統に育まれ、加えて近代科学の合理主義、イギリス流ブラックユーモアのエスプリなどに支えられて、聴衆と舞台の幸せな融合がある。


そのロンドンの演劇空間から出てきたニックペインの知的で前衛的な舞台をここ東京で見ることができた。眞鍋卓嗣さんが台本を読んで惚れ込み、俳優座制作部を粘り強く説得して上演にこぎつけたのだという。眞鍋さんはロンドンの舞台は見ておらず、脚本から今回の上演に向けた読み込み、解釈をした。


俳優座ビルの上にある、普段は稽古に使われているスペースの中央に舞台が設えられ、その上で俳優たちが演技を展開する。椅子とピアノだけのシンプルな小道具構成は、現代のコンセプチュアルアートのようで、それが劇の内容や演出とあっていた。


てんかんの治療のために海馬を切除したため、「今、ここ」を超えた記憶がつくられなくなったヘンリー。「H・M」というイニシャルで長く知られた、神経科学の世界では知らないもののいない有名な実在の患者である。

天才物理学者アインシュタイン。その脳をとりだしたハーヴィー。

記憶喪失であり、でたらめの記憶を生み出す「コンファビュレーション」の症状を見せている男。

脳と記憶、そして意識、自由意志をめぐるリアルな素材から出発し、しかし物語は事実主義でも実証的でもない。

4人の役者が、異なる文脈におけるさまざまな役を、めまぐるしく切り替わる場面の中で演じ続ける。イギリスの現代演劇の多くがそうであるように、ニックペインの脚本は説明的ではない。観客は、役者のセリフから、交錯している複数の物語がやがて響き合う平行世界になる様子を目撃する。そして、平行世界は、やがて量子干渉を起こすかのように相互侵入する気配を見せ始めるのだが。。。


安藤みどりさんは、素材としての自分と全く異なる人物、キャラクターをまとうという意味において演劇の最良の伝統を体現化している。

志村史人さんの安定感と温かさは、離散的な非現実を基調低音とするこの劇にしっかりした錨を与えてくれている。

保亜美さんは声楽に喩えればコロラトゥーラからドラマティックソプラノまで演じられる稀有な人だ。

そして、野々山貴之さんのヘンリー=H.M.の演技は、『フォレスト・ガンプ』におけるトム・ハンクスに匹敵する当たり役だと思う。


眞鍋卓嗣さんがこの難しい脚本を楽しめる舞台にした技量は、特筆すべきものだと思う。俳優座制作部もなかなか首を縦に振らなかった難しい原作を東京で上演して成功させた功績は、大いに褒め称えられていい。


私は『インコグニート』に演劇の未来を見た気がする。私たちの経験する日常は、どんどん断片化、分人化している。一人が引き受ける役割は分裂し、世界をまとめあげるはずの意識というフィクションも、人工知能の台頭による人間能力の陳腐化と、アイデンティティのゆらぎによって引き裂かれようとしている。そのような視点から見ると、今回の『インコグニート』の中には、むしろ現代を理解する上で不可欠なひんやりとしたリアリズムさえある。デジタルネイティヴ世代、AIネイティヴ世代にとっては、『インコグニート』は、むしろ『自転車泥棒』くらいの「ネオリアリズモ」なのかもしれない。


今回の舞台のために役者たちと眞鍋さん、演出人は40日の練習を重ねたとのこと。十数日の上演だけではもったいない(全日完売とのこと)。ぜひ再演を望みたいし、全国各地での上演もあったらいい。


NHKを始めとするメディア関係者の方には、ぜひ『インコグニート』の舞台に足を運んでいただいて、撮影、コンテンツ化、番組化を検討していただきたい。2時間のコンパクトな舞台で、エンタメ性も高い。えっ、もう終わりなのかと思うくらいのめり込んで熱心に見た。舞台のしつらいがシンプルなので、役者さんの表情、そのトランスフォーメーションをとらえるカメラと広くとらえるカメラをうまく組み合わせて、撮影、編集にそれほど手間をかけずにコンテンツ化できるはずだ。


演劇を志す方、支える方の熱に触れて心を動かされた夜だった。結局、文化の創造は一人ひとりの気概にかかっているのだと思う。




(クオリア日記)

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