連続ツイート2364回をお届けします。文章はその場で即興で書いています。本日は、感想です。


日本人は長いものにまかれろ、ということがあるけれども、ぼくが出版界の方々と折衝ができはじめたころは、村上春樹さんについて悪いことを言う方々がたくさんいらして、文壇では否定的な感じもあったけど、ノーベル賞の候補になるころからそういうのが消えていった。首尾一貫している人たちもいるけど


それで、ぼくが理解するところ、村上春樹さんの小説に対する批判で多かったのは、文体だったような気がする。あの翻訳調というか、独特の文体を批判する出版関係者が多かった。確かに、芥川賞の受賞作に典型な、工芸作品のような磨き上げられた文体とは違う。


だけど、村上春樹さんの小説の文学として凄さは、文体と関係ないところにあるように思う。ロシア語に訳されたのは、確か、日本に住む熱狂的なファンがネット上に翻訳をあげていたのがきっかけと読んだことがあるけれども、翻訳されても変わらない、抽象度の高い領域にこそ、村上さんの文学性はある。


それで思い出すのは、ドストエフスキーとトルストイの関係で、もちろんどちらも大好きだけど、誰かが、ロシア人のインテリは、トルストイはいいけどドストエフスキーはダメで、というのもドストエフスキーは文体がむちゃくちゃだと言っていた。トルストイの文体は格調高く美しいのだそうだ。


ドストエフスキーは、何しろ、借金に困って手っ取り早くお金をつくらなくちゃいけなくて、ガールフレンドに口述したのが『罪と罰』で、後期の傑作のほとんどは、そのように口述で語ったものだと聞いたことがある。だから、文体とかそういう問題以前のことである。しかし、カラマゾフとか傑作間違いない


亀山郁夫さんに以前うかがったのだけれども、ドストエフスキー作品は翻訳で読んだほうが幸せで、というのもロシア語の原文は同じ文章に形容詞が重複して出てくるなどむちゃくちゃなのだという。でも、ドストエフスキーの文学の素晴らしさはそういうところにあるんじゃないだろう。


夏目漱石は文体も文学性もどちらも素晴らしいけれども、文体が整っているとか、洗練されているとか、そういうことは確かに大切だけれども、あまりそれに流されてはいけないんだろうなと思う。村上春樹さんもドストエフスキーも、その文学性は翻訳で持ち運べる領域にある。


以上、連続ツイート2364回、「村上春樹さんもドストエフスキーも、その文学性は翻訳で持ち運べる領域にある」をテーマに7つのツイートをお届けしました。