のんさんは素晴らしい才能にあふれた人で、そののんさんの活動を、スピーディーの福田淳社長が支えていらっしゃる。


福田社長からお招きを受けて、下北沢、本多劇場でののんさん、渡辺えりさん、小日向文世さん出演の『私の恋人』を見た。


脚本、演出は渡辺えりさん。

原作は上田岳弘さん。


本多劇場に行くのはいつぶりだったのだろう。なんとなく駅からのアプローチが違うような気がして、「移転しました?」と聞いたら、「こんな古い劇場が動けるはずが・・・」と笑われた。


客席に座ってぼんやりしていたら、ああ、そうだ、この感じだと思い出した。


野田秀樹さんの「夢の遊眠社」の公演を本多劇場に見に来たとき、客席と舞台の感じがこうだったなあと体の芯から記憶が染み出してきた。


舞台は、のんさんと『私の恋人』というタイトルからなんとはなしに予想していたものを良い意味で全く裏切られたというか、実はとても驚いた。


渡辺えりさんはもちろんよく存じ上げているけれども(存じ上げているつもりだったけれども)、渡辺えりさんの脚本、演出の演劇がどのようなものか、よくわかっていなかったのかもしれない。


それは、文学で言えば「純文学」で、絵画で言えば「抽象絵画」のような舞台であった。


主役たちが30役を次々とやるのだけれども、時空を超えて、文脈や意味も超えて、ひとつの芸術だった。


容易に着地できる解釈や感慨は与えてくれないし最初からそれは目指されていない。そのかわりに、この舞台でしかないクオリアがある。複雑で有機的でじんわりと人間である。

演劇ってそれしかないよね。


のんさんは輝いていて、アイドルというものは、というよりものんさんという存在はこんなにすごいのかと改めて思った。


くすんだ大地にいきなりプラチナの元素が降臨したような、そんな印象だった。


それは、顔だけでも、身体だけでも、身振りや声だけでも再現できないいわば存在全体の輝きのようなもので、渡辺えりさんがのんさんを想定してもし『私の恋人』をあてがきしたとしたら、演劇空間に降り立ったある種の「異物」としてののんさんの存在をどう活かすかということを課題としたはずだ。


そしてそれは成功していた。


三枝伸太郎さんのピアノの生演奏で進行していく趣向は心地よかった。冒頭のえりさんの「ハミルトン」についての発言で全体のトーンがなんとなく設定されたと思う。


多岐川装子さん、松井夢さん、山田美波さん、那須野恵さん、栗山梢さんが、天使? みたいなのになってわにゃわにゃ言いながら小日向文世を変身させていったり、ねこになって時計の中で居眠りしたりしていたのがたのしかった。


鴻上尚史さんがいらしていて、目があって、どうもという感じになったので、「あっ、ツイッターいつもたのしいです」と間抜けなことが思わず口をついて出てしまって、ほんとうは『不死身の特攻兵』の話をしたかったのだけれども、この本、読もうと思って本とか書類の間にどこかに消えてしまって、また買って読もう、と思っているうちに昨日になってしまっていて、そこに鴻上尚史さんがいきなり現れたので、「あっ、ツイッターいつもたのしいです」という間抜けな発言になってしまったのだった。


舞台が終わった後、鴻上さんがすみっこの方に立って、そこに青年が話しかけてふたりで話している感じの時間の流れが、演劇っていいな、本多劇場っていいな、下北沢時々こないとなあと思わせたのだった。


ぼくにも、下北沢に夢の遊眠社を見にきてその後街をふらふらしていた頃の時間はたしかにあったはずなのだ。


福田社長とお仲間たちと「打ち上げ」のような時間でたのしくお話しをした。


演劇に見ている夢は、きっと今の時代では青春そのもので、その感触に時々ふれないと、人は何かを失ってしまう。


もっと渡辺えりさんの作品をみたいなと思った。


そしてのんさんのプラチナの輝きは今後どんなかたちになっていくのだろうか。


きっと、それは海や空を超えていくんだろう。


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