連続ツイート2313回をお届けします。文章はその場で即興で書いています。本日は、感想です。


文章の「読解」ができるというのは、どのような意味であろうか? 国語教育が文学的な文章から論理的な文章に比重が移る動きがあるらしく、その中で「読解力」が重視されるらしい。その場合の「読解力」とは、一体なんなのだろうか?


「論理的」に組み立てられた文章から、どのような帰結が導かれるか。その理解は、確かに必要なスキルの一つかもしれない。論理的な文章を使って、そのような読解能力を育むことは大切に思われる。だから、国語教育の「一部」として、そのような課題があるのは有意義なことだろう。


しかし、自然言語全体を見たときに、いわゆる論理的文章の「含意」を理解するという認知プロセスは、全体の一部でしかなく、しかもどちらかと言えば「トリビアル」なものであると思われる。自然言語としては、むしろ、哲学的文章、ないしは文学的文章の含意の方が深く、面白い。


たとえば、デカルトの有名な「我思う故に我あり」という命題の意味を「理解」できるというのは、どういうことなのだろうか? 論理的な意味として理解するのはトリビアルだが、その含意をきわめようと思ったら、一生かけて考え続けても、たどりつけないだろう。


あるいは、漱石の『こころ』で、実の父親が危篤だというのに、先生から長い「手紙」が到着したら、列車に飛び乗って会いにいく、主人公の心情は何なのか? 論理的に解析するのもある程度は可能かもしれないが、やはり、感じ、思い、対話しなければその意味はわからない。


昨今しばしば議論される、「文章の意味がわからない」問題において問われている「文章の意味」は、自然言語全体から見れば、どちらかと言えば基礎的、初歩的、トリビアルな能力のように思われる。もちろん、その程度のこともわからないのは困るとも言える。一方でその程度のことでしかないとも言える。


いわゆる「論理国語」で問われ、育まれる能力は、自然言語処理の能力全体から見れば、たしかに必要であるしそれを訓練するに越したことはないが、一方で基礎的でトリビアルであるとも言える。国語教育が、それで尽きる、それで良いと思う人はあまりいないのではないか。


以前から、日本の学校教育(とりわけ大学)において課される読書の量が少なすぎると言われているが、いっそのこと、文学教育の質、量を高めて、たとえば『こころ』だったら抜粋じゃなくて全部読み、さらにはクリエイティヴ・ライティングも導入して文章を大量に書かせたらどうだろう。


数学などの分野で、文科省の定めるカリキュラム水準がどんどん低くなっていることが問題になっているが、以上のような議論を踏まえると、国語が論理的文章の読解にシフトするのも、このような「要求学力」の低下という趨勢の一部であると考えられる。日本語は「論理国語」よりもはるかに深く広いのだ。


以上、連続ツイート2313回、「日本語は『論理国語』よりも遥かに広く、深い」をテーマに9つのツイートをお届けしました。

連続ツイートまとめ.png