連続ツイート2275回をお届けします。文章はその場で即興で書いています。本日は、感想です。


今日もテレビの選挙報道の問題を取り上げる。ジャーナリズムの役割としては、さまざまな取材をして、その経験を総合してニュース原稿を書くことに醍醐味があるわけで、たとえ映像を使うとしても、どんなリード文でそれを伝えるかで印象は全く変わってきてしまう。


選挙の現場で各社の記者の方々にお目にかかることがよくあるけれども、みなさんとても優秀で、理解能力もあり、それぞれの候補に対する目線も温かくも鋭い。ところが、そのような優秀で志ある記者さんが、意味のあるニュース原稿を書く機会が今のテレビではどうもあまりないのではないかと危惧する。


せっかく現場で取材して、さまざまなことを見聞きしているのに、テレビの記者さんたちは、結局局に帰るとおざなりの表面的なニュースしか流さない番組の前で、自分たちの取材経験を思い切り活かす機会に恵まれていないように思う。極言すれば、取材は全く無駄、無意味だということになる。


不思議なのは、無味乾燥で陳腐な選挙報道しかしないその責任がある番組のプロデューサーや、デスク、さらには編成の方々も、若い頃は能力もあって志のある記者だったことがあるはずで、その頃、自分たちの取材経験がニュース原稿に活かされないじりじりするような不満を経験していなかったのだろうか?


せっかく現場でさまざまなことを映像に収めても、結局それらは素材としては使われず、また取材、経験したいろいろな知見を凝縮してニュース原稿に落とし込むということもできないのだとしたら、テレビ局の記者さんたちはおおきな不満、ストレスを感じていらしたとしても不思議ではない。


テレビは、番組フォーマットの陳腐化、表面化が進みすぎていて、現場の熱気と、それを番組に落とし込むときのすべての生気、精気、臨場感、意義が失われていくプロセスの断絶が強すぎる気がする。記者の人間としての能力が活かされていない。あまりにも無駄が多すぎる。志、熱意の墓場である。


忘れてはいけないのは、テレビが使っているのは公共の電波だということ。もし自分たちで有意義な番組が作れないのならば、退場して他の人たちに作らせたらいい。電波オークションとまでは言わないけれども、番組編成の一定枠(10%とか?)を外部制作、編成に委ねるくらいの改革はあっていいと思う。


陳腐化して意味のないテレビの選挙報道に比べてフリーランスで動いている方々は自由に自分の取材経験を活かしたニュース原稿を書き、ジャーナリズムの本来の姿がそこにある。テレビにはジャーナリズムがなくなってしまった。そこにあるのは単なる惰性である。公共の電波がこんな惨状でいいはずがない。


以上、連続ツイート2275回「テレビの選挙報道は、ジャーナリズム精神の墓場になっている」をテーマに8つのツイートをお届けしました。


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