岩波文庫の解説目録を読んでいると、いろいろなのが読みたくなって、それで、しばらくぶりに志賀直哉の「小僧の神様」(及びそれ以外の、志賀直哉自身が選んだ短編集。岩波文庫)を読んでいたんだけど、思ったのは志賀直哉自身はポスト・ヒューマンというか人間原理を超えた冷徹な観察者でちょっとイヤなところがあってしかしそれが文学性に通じているなあということだった。


小津安二郎は志賀直哉を尊敬していたようだけれども、ぼくは小津のヒューマニズムの方が信用できる気がして、志賀直哉は鋭い人だなあとは思うけれども、あの底意地の悪い冷たさがどうなんだろうと思う。


それはそうと、志賀直哉は「ほんとう」を「本当」ではなく「本統」と書くのであって、これ、今グーグルの翻訳エンジンで試しても「本統」という選択肢は出てこないから、レアというかおそらく志賀直哉自身の癖というか、かつてあっても廃れてしまったんだろう。


それで、改めて、学校教育の中でこれが正しい書き方だ、みたいなのを強制するのは(それで◯つけて点数化するのは)トリビアルすぎてやめてほしいというか、もともと日本語の「ほんとう」に漢字を当て字しているわけだから(「ほんとうが大和言葉だという前提でこれ書いているけど、ほんとうのところは知らない)、「ほんとう」は「本当」でも「本統」でもいいわけで、そういうことで◯をつけるような学校教育ではなくて、小津のヒューマニズムとか、志賀の底意地の悪い冷たさとか、そのような抽象的かつ高度なことを話し合うような学校教育であってほしいと思う。


本当(本統)に。


まあ、そうは言っても変わりっこないことはわかっているわけで、一人ひとりが学びを守るしかないよね。


(クオリア日記)