箸の持ち方だけど、この前何人かとランチしながら箸の持ち方を比べたら、だいたいみんな同じ持ち方をしていて、それでぼくもそれとあまり変わらなかった。
ただ、身体の使い方などは言葉で記述し切ることが難しく(靴紐の結び方を言葉で記述することを考えればわかる)、「正解」とされる持ち方と、そのまわりの変異がどの程度が許容範囲なのかはなかなか確定できない気がした。
箸の持ち方が伝統だという意見も多いけど、歴史的に、箸の持ち方がずっとあるかたちだったというエビデンスはあるのだろうか。時代や地方による変異はなかったのだろうか。
正しい箸の持ち方は、使いやすく合理的で疲れないという意見も多いけれども、それも人の手の個性などによることもあるのではないか。
ある人にとって使いやすい持ち方が、別の人にとってはそうではないかもしれない。
また、最近の人工知能の研究で、囲碁や将棋で、人間のセンスから見れば悪手が実は良い手だということがある。人間の美意識は部分最適であることもある。
人工知能が箸の持ち方を研究すると、今「正しい」とされている持ち方とは別の持ち方を別の部分最適、ないしは全体最適として発見できるかもしれない。
箸の持ち方を家庭のしつけと結びつける方も多いようだが、現代における学びは他にもいろいろ大切なことがあるように思う。
箸の持ち方と人格を結びつけるご意見もだいぶあるが、箸の持ち方と人格が統計的に相関するかどうかは知らない。
箸の持ち方が正しい、正しくないと、そのようなことで人を判断する方も多いようだけれども、そのようなかたちで他人をどうこういうことの方が失礼な気が私にはする。
また、箸の持ち方は日本の伝統であるというようなことを言う方もいるけれども、何が日本の伝統であるかということを、あれこれ言うのが時に危険なことは、「江戸しぐさ」のような事例でも明らかなことかと思う。
他にもいろいろあるけれども、どうやらぼくはそんなに「正しい」箸の持ち方からずれてはいないようだけれども、他人に「正しい」箸の持ち方をあまり強く言い過ぎたりそれで何かを決めつけたりすることは、全体として適切ではないと感じている。
(クオリア日記)