連続ツイート2204回をお届けします。文章はその場で即興で書いています。本日は、メディアについて。


今朝の新聞に、街頭テレビに見入る人々の写真を使ったNetflixの広告があった。「見たいものを見られる。そんな時代を、これからも。」とあった。うまいなと思った。当時の街頭テレビに相当するものが、今はNetflixになっているというメッセージ。


ぼくは「街頭テレビ」には全然間に合っていなくて、ただ、子どもの頃、「力道山のプロレス」なんかを、人々が街頭テレビで夢中になって見ていた、ということを「レジェンド」としては聞いていて、その頃の熱を、なんとはなしに想像することはできていた。


メディアのちから、というか熱のようなものは時代とともに変わっていって、平成の30年もさまざまな新しいメディアが登場しては移っていった。今、かつてのわくわく、次は何を見ようという楽しみがNetflixだというのは私の実感で、確かにそのようにしてメディアの熱は移っていくのだろうと思う。


今の時代の特徴は、次第に地球がマクルーハンが予言していた「グローバルヴィリッジ」に移っていくということで、力や熱を持つのは、そのことを理解しているメディアだろう。Netflixは、アメリカやヨーロッパに行っても、同じアカウントでログインして見られる。その形式が新しい。


いろいろな国に行って、その国の地上波テレビをつけると、その国では著名だったり人気だったりするのだろうけれども、見たことも聞いたことも想像したこともないコンテンツが流れていて、地上波テレビはネーションステートという制度と密接に結びついて、その中で花開く文化だと実感できる。


こんまりさんが、Netflixで一つシリーズをやっただけで、実際に見た人がどれくらいいたということと関係なく、ある種のポジション感を得るというのは今の時代の実態で、グローバルヴィリッジのメディア状況はそちらの方にシフトしている。


令和が5年、10年、15年と経つにつれて、メディアがグローバルヴィリッジの中で発展するという傾向はより強まり、その時はNetflixでさえすっかり姿を変えて、レガシー化さえしているかもしれない。変化のベクトルを見誤らなければ、レガシーの谷で鬱屈することなく、広々とした飛躍が可能だろう。


以上、連続ツイート2204回、「グローバルヴィリッジにおけるメディアの行く末」をテーマに、7つのツイートをお届けしました。

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