856回


かとうゆかさん


茂木先生
こんにちは。はじめまして、名乗る名もない者ですが、気まぐれに茂木さんのツイッターなどを拝見しております。「脳なんでも相談室」に投稿してみたい題材が複数思い浮かびながらも、言語化する時間(というより必然?)をとるほどではないまま過ごしてきました。


ヴィパッサナー瞑想という合宿に参加している時に浮かんだ疑問です。
「呼吸を観察することにのみ意識を集中させ他の事はすべて構うな」という瞑想法の実践において、座り方を工夫しようと試行することや、景色や食事を味わい楽しむことが、執着の種になるのではないか。瞑想法の妨げにならず執着の種にならない程度の意識の分散はどの程度なのかーーという疑問です。


食物を口に含み咀嚼して、という一連の流れには、無数の意識の選択の自由があります。どんな味だろうと自覚的に期待することは執着の種になるからしませんでした。味を認識した時点で、それを言語化することも、私は避けましたが、修行中の身なので、意識をコントロールできず「美味しい」という単語を脳に浮かべて判断することはありました。


食物が自分の目の前に運ばれてきた過程に想いを馳せることも皆無とはいきませんでしたが、瞑想の妨げになるため避けました。呼吸の観察にのみ集中せよ、とらわれるなという命に従えば、受け身で認識したわけではない現実について次の深い認識を得ようとしたり背景を思考することは瞑想の妨げになるはずです。座り方を工夫することも追求すれば瞑想の妨げにはなるけど、瞑想に集中する為の環境を整えることは自然なことだと解釈しました。



このような疑問に対して瞑想合宿の期間中に一度だけ質問した時の指導係の回答は、「自然にすればよろしい」というものでした。



声が言葉に聞こえる意識状態というのが、すでに脳内のリソースを最大限に呼吸にのみ集中している状態とはズレたものなのではないかという疑問もありましたが、そこは自意識の制御下にないので指導を仰ぐ意味はありませんでした。声が声にしか聞こえないほど呼吸の観察にのみ集中している時間もつくれました。指導係の「自然にふればよろしい」という回答を、充分に呼吸が観察できていれば、食事の味を判断したり楽しんだり感想を抱いたり食べ方に意識を反映させたりすることは、瞑想上問題にならない、と解釈してもよいのでしょうか?


ご回答。


瞑想の一つの方法論として、自分の呼吸に注意を向けるというのは、経験論的にそれが有効であるとして伝えられてきたのだと思います。

一方で、瞑想には、個人差もあり、もともとは修行をする人が自分で模索していろいろ試して、方法を開発してきたという側面もあると思います。


ですから、どうしてもこうしなくてはいけないという方法論が一つだけあるというわけではないと思われます。


その指導者の方の、「自然にふればよろしい」というのも、そのような考えではないでしょうか。


食事のことを含め、雑念がある程度生まれてくるのも仕方がないことだし、その上で少しでも精神を統一するよう試みられればいいのではないでしょうか。


以下は全く個人的な感想になりますが、瞑想にせよ、座禅にせよ、私は特定の方法で何かをするということをしたことがないし、これからもする予定はありません。


私の性質として、誰かが決めた方法に従うということが根本的にいやなようです(笑)。


また、日常の中で自分の意識状態に注意を向けることで、十分なような気が個人的にはしていて、それで十分に意識のメタ認知はできるように感じています。


それ以上の深入りした修行のようなものは、あまり私はしたくない、というのがあくまでも個人的な印象です。


人それぞれ試してみたいことが違うと思うので、かとうゆかさんはご自身の仮説でいろいろされてくださいね!


nounandemo
 
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