連続ツイート2188回をお届けします。文章はその場で即興で書いています。本日は、「東大入学式での上野千鶴子さんの祝辞」について。
東大入学式の上野千鶴子さんの祝辞でも指摘されているように、入学者に占める女性の割合がこんなに少ないのは確かに謎、問題で、学力だけで見ればおそらく50%かそれ以上にならないとおかしいんだけど、そうなっていないのは上野さんが指摘されるようなさまざまなジェンダーバイアスがあるのだろう。
ぼくは、合コンとか一切行かなかったから知らないけれど、東大の男子学生と女子学生の立ち位置が違うというのは上野千鶴子さんの言う通りなのだろう。そして、東大の男子学生の間に、上野の言われるような雰囲気があったということは鮮明に記憶している。
男性が、自分よりも知性が高い(と思われる)女性におびやかされると感じるのは日本だけでなく世界的な傾向で、だからこそ、女性側がものを知らないという前提での「マンスプレイニング」(mansplaining)のような言葉が生まれる。東大だけでなく、日本の社会全体にそういう傾向があるのだろう。
ぼくが最近いろいろなところで言っているのは、人類初のプログラマーはアダ・ラブラスという女性だったということで、バベッジの階差機関で何を計算するかというときに、当時の男性が弾道計算(軍事)しか思いつかなかったときに、アダは遥かに先端的なことを考えていた。
アダ・ラブラスは、計算機械をつかって、音楽をつくったり、絵を描いたりすることができるということを構想して、きちんと記述している。世界最初のプログラマーが女性で、そのような構想力を持っていたということはもっと強調され、記憶されていいだろう。
ぼくは、東京大学の中にあった俗っぽい空気(その中には、東大の男子学生はモテるけど、女子学生はモテないみたいな思い込みも含む)に馴染めなくて、塩谷賢や竹内薫など少数の友人としゃべる以外は、ほとんど学内で引きこもっていた。会話に慣れることができなかったのである。
塩谷賢や、竹内薫のようなやつは、東大の中でも、たとえば男性よりも賢い女性は嫌だとか、およそそのようなことは人生で一度も頭をよぎったことがないタイプの人間で、だからこそ親しく付き合えたけど、「普通の」東大の男子学生は確かにそうではない雰囲気を漂わせていた気がする。
上野千鶴子さんの祝辞で思い出したのは、ぼくが在学中、東大の(ぼくの表現で言えば)俗っぽいマジョリティの文化に馴染めずに小さくなっていたことで、考えてみればぼくも少数派だったんだなあということ。ましてや女子学生はほんとうに大変だったんだろう。
ぼくは、幸いにして、偏差値入試とか、東大の学生たちの(ジェンダーに関する軽薄な思い込みを含む)俗っぽい感じとか、そこのボトルネックをくぐり抜けて今は自由だけど、確かにあの狭い場所を通るのは大変なんだよなあと、上野千鶴子さんのスピーチを読んで思い出した。
願わくば、東大の入学者が、普通に男女半々というか、女性の方が少し多くなるくらいになるように、日本が今後変わっていったらいいなと願うところである。そうならない理由は、東大だけでなく、メディアや社会の風潮など、いろいろなところに転がっている複合的なものだと思う。