連続ツイート2178回をお届けします。文章はその場で即興で書いています。本日は、日本文化とグローバル化について。
新元号が「令和」に決まり、その出典が万葉集の序だったということがきっかけになって、日本の古典とその位置づけについての議論が深まっているのは良いことだと思う。まずは、このような流れが、大学で文系の学問は要らないという俗論の解体につながればいいと思う。もちろん文系の学問は必要である。
次に、万葉集のような古典は、日本人が思っている以上に世界で知られているということに気づいた方が良いと思う。ここで言う「知られている」というのは、あるクラスターの方々には知られているという意味で、多様化している現代の世界ではある意味のあるクラスターで知られているのが全てである。
最近、BBCのRadio 4で、Pillow Bookというのをやっていたから、枕草子の英訳でも流しているのかと思ったら、そうではなくてなんと清少納言を主人公としてミステリー、探偵物であった(笑)。それくらい、日本の古典は、あるクラスターの方々には知られていて、影響を与えている。
万葉集にしても、一つひとつの歌が知られていなくても、無名の農民から防人、貴族、天皇まで、さまざまな人が歌をよんでそれが集められたというコンセプト自体は、世界のあるクラスターには届くのであって、それなりの影響や感銘を与える。それが現代である。
正宗白鳥さんだったか、小林秀雄に『源氏物語』はいいねえ、と言って、小林さんが谷崎訳かいって聞いたら、そうではないArther Waley訳だと答えたとかいうエピソードがあるが、源氏物語の本質はウェイリー訳でわかる、というクラスターもあるのだと思う。
新元号をめぐる議論で、国内だけの視点になってしまうのだと今の時代ものたりない気がして、出典が万葉集の序であること(そしてそれはもちろん漢籍の影響を受けていること)、それがどのような意味を持つかということを世界文学や世界文化のクラスター、文脈で考えて良い時代になっていると思う。