ツイッターを見ていると、いろいろな方がいろいろことを言われている百田尚樹さんの『日本国紀』を読んだ。

 ウィキペディアの記述が不用意に引用されているとか、増刷した本が本屋に「押し紙」のように置かれているとか、揶揄するコメントを見ていると、きっとそこには本質がないんだろうと感じていた。
 
 もちろん、引用のプロセスをきちんとやることは大切だけれども(ぼくは、文章を書くときには一切何も見ないで自分の脳から出てくる文字列を記すことにしている。つまり、システム的にコピペ的なことは起こらないようにしている。そもそも一字一句正確に記憶することなどできないし。)、一方でアマゾンのレビューの星は高く、ベストセラーになっているわけだから、良いところがある本なのだろうと思った。

 都内某所の書店で買ったのだけれども、レジにいらしゃる店員さん二人が、どうやらぼくに気づいたらしく「あらっ」みたいな感じで見ていたのだけれども、ぼくが山積みされている『日本国紀』を持ってカウンターに行ったら、「えっ」とか「おやっ」みたいなリアクションになった。

 世間では「リベラル」と思われているらしいぼくが『日本国紀』を手に取るのが意外だったのだろう。
 それで、若い男性の店員さんが、ささやくような声で(とぼくにはなんとなく思えてしまった)「カバーかけますか?」と聞いてきたのが、もちろんみんなに聞いているんだろうけど、まるで、「ダンナ、この本を持って歩いているところを見られてだいじょうぶですか?」と尋ねているように思えたので、むしろ決然と(のつもりで)「カバー要りません!」と答えた。

 それで、その後新幹線の中で読んでいるときには、なんとはなしに通路に背を向けて読んでいたけれども、それは別に深い意味はありません。
 感想だけれども、まず、これだけ長い期間にわたる日本の通史を、細かく記述した、その労力には頭が下がる。
 ぼくにはとてもできない。
 
 また、『日本国紀』の根本感情は、日本という国を肯定したいということだと思うのだけれども、これも、グローバル化の時代に、それぞれの文化、歴史のアイデンティティを確立し、育みたいという人間の自然な気持ちとしてわかる。
 以上のような点から、ぼくは『日本国紀』が世間の一部で言われているほど悪い本だとは思わなかった。
 
 ただ、百田尚樹さん、時々筆がすべってしまうというか、勢い余るというか、近隣諸国の悪口を書かれるのだけれども、それは必要がなかったのかなと個人的には感じた。

 また、従来、日本を語るときに、「もののあはれ」とか、「和」(十七条憲法)とか、あるいは「見立て」とか、「序破急」とか、「常若」とか、いろいろなコンセプトが援用されているけれども、個人的にはそのようなコンセプトワークのディープラーニング的深まりをもう少し読んでみたかった(というか、無意識のうちにそのようなものを期待していた)という気がする。

 もっとも、このようなコンセプトの掘り下げ、深まりは、『日本国紀』のような通史の形式をとっている本では難しいだろう。

 改めて思ったのは、日本を肯定的に語るということと、近隣諸国の悪口は切り離して、前者のみにフォーカスし、さらには近隣諸国のユニークな価値をリスペクトすることの大切さ。

 近年の日本では、日本肯定と、近隣諸国への悪口がパッケージになって受容されているところがあって、それはぜひ切り離した方が良いのだと思う。

 ところで、ぼくは百田尚樹さんには何かがきっかけでツイッターをブロックされていて(@メンションとかをしたわけではない)、百田さんのツイートはアカウントからサインアウトしないと読めないのです。

(クオリア時評)

日本国紀.png