イギリス人と自然の関係

 「ピーター・ラビット」で有名なベアトリックス・ポッター(Beatrix Potter)は、ある意味で、イギリスで最も愛されている作家である。六つの出版社に断られ、最初は三百部の自費出版として出されたその作品は、今や世界中の人々に愛される童話となっている。イギリスでは、「イギリス人はポッターの作品を子供のときに読み始め、一生読み続ける」と言われるほど、人々の愛読書として定着している。
何しろ、「ベアトリックス・ポッターのお話」(Tales of Beatrix Potter)というバレエまであるくらいなのである! このバレエはダンサーにとって「鬼門」と言われている。というのも、ダンサーは、うさぎや蛙、豚、がちょう、りすなどのぬいぐるみを着て、動物たちの妙な動きを汗だくになって踊らなければならないからである。おまけに、ぬいぐるみを着ているので、誰が誰なのか、全くわからないときている! 
 ロンドンのコベント・ガーデンにあるロイヤル・オペラで、この作品を見たときの経験は忘れられない。クリスマス期間中のマチネだったのだが、会場は始まる前から異様な雰囲気だった。子供たちと、彼らを引率してきた大人たちが、そわそわして開演を待ちかねているのである。
 いよいよ開幕だ。子供たちが、目と口をあんぐりと開けて、「呆然」として見ているのに対して、大人たちの方は、「あのキャラクターが出た!」「今度はあのキャラクターが出た!」と、細かくチェックしながら見ている。もちろん、今、ダンサーたちが縫いぐるみの中で悪戦苦闘しながら演じているストーリーが、ベアトリックス・ポッターのどの作品なのかも、頭の中できちんと確認しながら見ている。このような大人たちの「チェック熱」が最高潮に達するのは、さんざん焦らされた後に、ついに一番人気の「ピーター・ラビット」が登場したときである。青いベストを着た世界で一番有名なうさぎが飛び出した瞬間、客席の温度が明らかに上がる。大人たちの中には、感極まって、隣の子供に「ピーター・ラビットが出たよ、ピーター・ラビットがでたよ」とささやきかけるものもある。このようにして、バレエ「ベアトリックス・ポッターのお話」は、会場の大人と子供たちを静かな興奮の渦に巻き込んで行くのである。
 
 「ベアトリックス・ポッターのお話」に対するイギリス人の熱狂の背後には、言うまでもなくイギリス人の動物好きがある。最近世界的に高まっている捕鯨や毛皮、あるいは動物実験に対する反対運動の起源は、大抵の場合イギリスにある。時には、イギリス人は人間よりも動物の方が好きなのではないかと思われるほど、イギリス人の動物好きは顕著である。
 イギリス人の動物好きは、まずはイギリス人のペット愛好となって現れている。イギリス人は、犬や猫はもちろん、オウムやカメレオン、ワニまで、それこそあらゆる動物をペットとして飼う。中国人が動くものなら何でも食べるように、イギリス人は、動くものなら何でもペットにしてしまうのである。
 とはいっても、イギリス人にとって最も身近なペットは、「犬」である。最近猫の愛好家も増えているとはいえ、イギリス人にとってのペットとは、まず何をおいても「犬」のことなのである。そして、イギリス人の犬と人間の関係を誉める人は多い。
 確かに、イギリスの犬は、人間社会に溶け込み、人間社会の中を比較的自由に闊歩することで、他の国の犬に比べてより快適な生活を謳歌しているように見える。犬にとっての最大の喜び、散歩の時にも、鎖につながれずに自由に走り回ることができるし、電車やバス、タクシーなどの公共交通機関にも原則として出入り自由である。おまけに、イギリスでは大抵の犬は室内で飼われているから、ほとんど人間と変わらない生活を楽しむことができる。
 このようなイギリスの犬の人間社会への浸透は、イギリスの犬が、非常によく躾られた、マナーの良い動物であるという条件があって始めて可能になった。もちろん、犬のマナーの良さは、飼い主のマナーの良さでもある。イギリスの公園には、犬の排出物専用の「ゴミ箱」(犬の絵がついている)が置かれていることが珍しくないし、また、飼い主も、必要な場合には、ビニル袋とスコップを持って歩いている。(一方、狭い海峡一つを隔てた隣国であるフランスの犬及び飼い主は、そのようなイギリス的清潔の観念を解しないようである。パリを始めとするフランスの各都市を歩いていて、犬の落し物に遭遇することは、それほど珍しい経験ではない。)
 しかし、イギリスにおける犬と人間の上のような蜜月関係は、犬という動物の「野性」の喪失という代償を払って獲得されたものなのである。極論すれば、イギリスにおける犬は、人間にとって都合のよい「人工動物」に限りなく近付いているといってよい。いろいろ考え方があるだろうが、私は、このような人間と動物の関係が必ずしも良いものであるとは思わない。犬に限らず、生き物というものはもっと自由で、予想がつかなくて、管理できないものであるはずである。しかし、イギリスの犬は、その行動の予想がつき、管理できる存在になってはじめて、人間社会への「参入」が認められたのである。その意味で、犬にとってイギリスの人間社会への溶け込みは、甘酸っぱいものであるはずだ。

 イギリス人にとって、行動の予想がつかず、管理できない動物は、「愛玩動物」の範囲に入らないのである。イギリスにおいて、狼が絶滅したのは、中世のはるか昔のことである。狼のような危険な動物は、それがイギリスから遠く離れたサバンナやジャングルにいるのでない限り、イギリス人の動物の愛好家の愛の対象にならないのである。

 イギリスは、現代科学のある分野において、依然として世界の中でも指導的な地位を保っている。それは、エコロジー(生態学)という研究分野である。とりわけ、自然界における生物の依存関係、エネルギーの流れなどを理論的に研究する数理生態学の分野では、イギリス人は一種独特の独創性と熱心さを示している。
 イギリス人の「エコロジー」に対する情熱には、何よりも、予測可能な、管理できる自然を愛するというイギリス人の自然観が反映されている。エコロジーは、別名「自然の経済学(Nature's Economy)」と呼ばれるように、自然界の複雑なネットワークにおけるバランスのとれた相互依存関係を扱う学問である。エコロジーにおいては、人間は直接自然を管理するわけではないが、アダム・スミスの「神の見えざる手」のような仮想的な管理者が想定されている。そして、エコロジーを研究する研究者の密かな野心は、(少なくとも知的な意味で)「神の見えざる手」に代わって生態系を管理することなのである。実際、最近の巨大閉鎖人工生態系(アメリカのバイオフェアIIなど)に見られるエコロジー研究の究極の目標は、自己充足的な人工的な生態系を創造、管理することであると言ってよいのである。
 確かに、イギリスの自然環境ほど単純な生態系ならば、それを理論的に解析しようという「大それた」考えを起こすのも、納得することができる。イギリスの自然に見られる生態系は、「ピーター・ラビット」に象徴されるように、穏やかで、比較的予想のできるものである。このような自然環境こそ、エコロジーが学問として誕生する国にふさわしい環境である。それに対して、例えば、熱帯雨林の複雑・莫大な生態系を目の当たりにしているジャカルタの生態学者は、その生態系を理論的に記述しようなどという「大それた」考えを、そもそも起こすことはなかったろう。
 我々人間の認識が、単純なものの理解から始まって、次第に複雑なものの理解へと進んで行くと言うことは常識である。ダーウィンが「ビーグル号」に乗ってガラパゴス諸島を訪れた時に、「進化論」を思い付いたのも、単純明解なイギリスの自然環境に慣らされた鋭敏な観察眼の持主が、ガラパゴス諸島という全く生物種の異なる、そして遥かに複雑な生態系を前にして、一種の発狂状態に陥ったからである。ダーウィンは、比較的単純なイギリスの自然環境で生態系の中に法則性を見るという訓練をしていたからこそ、ガラパゴスにおける経験を、独創的な理論という形で結実させることができたのである。

 結論すれば、イギリス人の動物好きは、イギリスの自然環境、そしてその中に住む野生動物たちが、ミルクをたっぷり入れた紅茶のようにマイルドな存在であるということと無縁ではないのである。イギリス人の意識の中で、「自然」と人間社会は、白い霧のベールの中にまろやかに溶け合って、一つの調和のとれた世界を作り上げているのだ。「ベアトリックス・ポッターのお話」は、イギリス人にとってのある理想郷(ユートピア)の像なのである。

英国生活の達人.png


(著者注 この原稿は、1995年、最初の英国滞在の際に書いたものです。茂木健一郎)