イギリスに生活しはじめてすぐに気がつくことは、この国は自然風土においても、食べ物においても、国民性においても、あまり刺激的な要素はないということである。あたかも、「刺激性のものは、すべてドーバー海峡の向こう側(すなわち、「フ」で始まる国)に追いやるべし」という不文律でもあるようである。
 このような環境の下では、活動的な知性は何らかのスパイスなしではやっていくことが出来ない。例えば、スペイン人のように闘牛やフラメンコを見にいくこともできないし、フランス人のように、カフェへ行って、ギャルソンとエスプリに満ちた会話を交わすこともできない。(イギリスのパブの店員と交わすエスプリに満ちた会話というのは、少し想像しにくいものである!)
 このような環境の下では、知的に活発な精神は、何か自分自身のために、知的な娯楽を創り出さざるを得なくなるのである。しかし、英国の生活はあまりにも感覚的な歓びに欠けているため、知的な娯楽と言っても、それは大陸ヨーロッパのように、感覚的な歓び、すなわち、音楽や美術の方向には向かわなかったのである。英国においては、知的な娯楽を求める精神の動きは、論理的な歓び、すなわち、科学へと向かったのである。
 このようなイギリスにおける科学の発達の要因は、「環境が貧しい国ほど、科学や文明が発達する」という我々の直感的な認識とも合っている。例えば、タヒチのような、放っておいてもいくらでも果物や海の魚が採れるところでは、別に難しい顔をして何故椰子の実は下に落ちて行くのか、椰子の実に限らず、マンゴの実も、ランブタンの実も、そして時には猿や人間も、万物は何故皆下に落ちて行くのかなど、考える必要がなかったのである。
 日本でも、江戸時代に和算や本草学といった、当時の世界の最高水準の学問が発達していた。しかし、これらの知的営みは、ついにイギリスにおけるような、近代科学の誕生へとつながることがなかった。つまり、歌舞伎のようなあまりにも刺激的でスパイシーな知的食事のある日本では、それ以上の知的な娯楽を創り出す必要がなかったので、科学は発達しなかったのである。
 何れにせよ、イギリスが感覚的刺激に乏しい、「退屈な」国である限り、イギリスの科学者たちは世界の一流の業績を出し続けるに違いない。

 感覚刺激に喜びを見いだせない精神は、やがて、論理的な思考に喜びを見いだすようになる。
 シャーロック・ホームズという人物像は、実に見事にイギリス人の性格のある種の典型例を示していると言える。この名探偵にとっては、論理を働かせて、一見解決が不可能に見えるほどの事件を解決していくことは、まさに胸がどきどきするほどの快楽をもたらしてくれるのである。別の言い方をすれば、シャーロック・ホームズという人物の脳の中では、論理的に考えることによって、快楽物質が分泌されるわけである。実際、このコナン・ドイルが生み出したイギリス人のヒーローの、推理に対するのめりこみかたの中には、どこかしら病的なものが感じられる。
 イギリス人の中には、論理的に考えるということが、ほとんど麻薬と同じような快楽をもたらすとしか思えない人々がたくさんいる。明らかに、アイザック・ニュートンも、そのような人物だったのだろう。
 イギリスの駅のキオスク、ちょっとした雑貨店には、「論理パズル」という恐ろしげな名前の雑誌が売られている。このような「論理パズル」の雑誌がさりげなく山積みされているところをみると、イギリス人の中には、鉛筆を持ち、目を輝かせながら「論理パズル」を解くことが、何よりの快感であるという人達がかなりの数いることになる。日頃から、「非論理的だ」といわれ続けている日本人の目からすると、これは実に驚異的なことではないだろうか。


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(著者注 この原稿は、1995年、最初の英国滞在の際に書いたものです。茂木健一郎)