イギリスの新聞の1面には、非常に頻繁に美術品や骨董品に関する記事が出る。その頻繁さは、一見、イギリス人が「美」を好み、それを政治や経済の大事件と同じくらい重要なことであると思っていることを示しているかのようである。しかし、より注意してこれらの記事を読んでみると、イギリス人は、決して我々の期待を裏切らないことがわかる。すなわち、これらの「美術品」に関するイギリス人の関心は、あくまでも「経済」的なものなのである。
 これらの記事の見出しは決っている:「チャップリンの帽子とコートが1万ポンドで売れた」「ベアトリス・ポッターの「ピーター・ラビット」の初版本が2万ポンドで売れた」「ゴッホの絵が、10万ポンドの値をつけた」・・・つまり、全て、何がいくらで売れたという話題ばかりなのである。そして、その作品の予想落札価格がいくらで、実際にはいくらで売れて、それをクリスティーズの担当者がどのように考えたかということを興奮気味に書くのがこれらの記事の常道なのである。作品の価格については興奮気味に語られても、それらがいかに優れた芸術作品であるかが興奮気味に語られることはない。
 イギリス人の多くは、それを決して認めたがらないだろうが、「美術品」の価値が、その値段で決ると思っている。その証拠に、中世の見事な宗教画が美術品マーケットで安い値段で売られていることを、憤る記事が出たりする。著者は、宗教画の値段が安いこと、現在これらの作品が「流行していない」ことに、本気で憤慨しているのである。まるで、これらの絵が美術品マーケットで安く売られていることが、これらの作品に対する侮辱であるかのようである! このような記事は、「美」を理解していることを示そうとしてかえってその無理解を暴露しているようなものである。もし、イギリス人が本当に「美」はお金で買えるものではないことを理解しているのならば、ある類希な芸術作品が安い値段を付けられたからといって、腹を立てることはないだろう!
 ルネッサンス以降のギリシャ・ローマの作品の「再発見」、とりわけその「発掘」が、イギリス人を始めとする「金持ち」の旺盛な購買意欲に支えられて行われたことは、歴史上の常識である。もちろん、その過程で多くの偽物が作られたし、そのうちの幾つかは今日でも「本物」として大英博物館に御鎮座なさっているかもしれない! 何れにせよ、これらの美術品が日の目を見たのは、イギリス人の、美に対する「経済的アプローチ」のお蔭なのである。言い替えれば、イタリア人が自らの「美」を創造するためにローマやギリシャの芸術作品を必要としたのに対して、イギリス人は、「美術マーケット」に取入れるためにこれらの芸術作品を必要としたのである。
 イギリス人は、「美」に対する愛において、極端に走らない。「美」に対してであれ、他の何に対してであれ、バランスを失い、極端に走る傾向のあるロシア人が芸術にまで高めた「バレエ」は、イギリス人の手によってかわいらしい、バランスのとれた、マーケット可能な商品になったのである。

 イギリス人は、想像力の比較的乏しい国民である。というよりも、イギリス人は、想像力さえ、管理、流通する対象としてしまうのである。
 確かに、「不思議の国のアリス」のようなファンタジー文学の系譜は、イギリスに確固として存在する。しかし、それも、イギリス人はファンタジーをマイルドな、ストーリーとして管理可能なもの程度にしか考えていないからである。そもそも、イギリスの小説としては比較的「トリップしている」と思われるエミリー・ブロンテの「嵐が丘」(Wuthering Heights)にしても、その「ファンタジー」の質は、「日常生活から一歩踏み出した」という程度に留まっている。あのシェークスピアにしてさえそうである。「テンペスト」や「真夏の夜の夢」は確かに偉大な作品だが、そのファンタジーの質は、やはり、「ドン・キ・ホーテ」や「西遊記」などに比較すれば、「マイルド」としかいいようのないものである。
 つまり、イギリスのファンタジーの特徴は、「行きすぎないこと」である。ファンタジーというものは、それをもし極端に押し進めて行けば、とても扱えないものになってしまう。イギリスのファンタジーは、現実から「一歩」だけ踏み出した程度の、マイルドなものなので、長い小説にすることもできるし、「不思議の国のアリス」や「ピーター・ラビット」のように「商業化」することもできるのである。
 本当に極端なファンタジーは、とても長い小説にしたり、商業化できるものではない。例えば、「荘子」の中の、「目が覚めて、私は、私が蝶になった夢を見たのか、それとも蝶が私になっている夢を見ているのか、わからなくなった(胡蝶の夢)」というのは、本当のファンタジーである。 あるいは、中島敦の「名人伝」の中で、弓の名人がいよいよ仙境に達して、ある時弟子が弓を見せると、それが「弓」であることを忘れていたというのは、素晴らしいファンタジーである。しかし、実際的あるいは経験主義的なイギリス人は、このような「クレイジー」な話を聞いても、肩をすくめて、悲しそうに首を振るだけだろう。
 従って、イギリスがファンタジーの国として知られているのは、皮肉にも、イギリスにおけるファンタジーがマイルドな、中庸を心得たもので、おまけに「商業化」にも適したものだからである。つまり、イギリス人は、想像力を欠くが上に、ファンタジーを好むのである。少なくとも、イギリス人が、想像力を余り表面に出すことを嫌うことは、疑いようがない。
 イギリス人は、極端に走らないのである。ここに、イギリスの成功の、偉大な秘密が隠されている。


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(著者注 この原稿は、1995年、最初の英国滞在の際に書いたものです。茂木健一郎)