いろいろなところで話題になっている古市憲寿さんと落合陽一さんの対談。



特に終末期医療に関する議論が「炎上」しているようだけれども、ぼくは読んでいて、ああこういう感じで考えているのだなと思って反発とか違和感とかは特になかった。

時代の気分のようなものがあって、ある世代の人たちと話していると、この対談と同じような暗黙知というか世界観が伝わってくる。

古市さんや落合さんのような鋭利さとかアクロバティックな思考の発展に出会うことはまずないけれども。

AIやインターネットといったテクノロジーが力の源泉になっている今日、どこかの時点で「断層」が生じていて、それを「大人たち」が知らずにあたふたするということはあるのだと思う。

対談の中で「既得権益」と言われている方々との差は、年齢だけでなくて、さまざまな感覚や世界の見方の側面で超えがたいものがあって、その「向こう側」にいる若者たちの姿は、「既得権益」世代からはおそらくは見えない。

落合さんや古市さんは、『文學界』 に出てくる時点で、その中では親切な方なのだと思う。

特に炎上している終末期医療に関する議論は、今後ファクトチェックが行われるだろうし、一部の方が懸念されているような優生思想な方向に行くことは直ちにはないと思う。お二人も、この対談で切り取られた「文字列」だけで語れるような人たちではないし、文字列は固定されているけれども人間は生身で動いていく。

それよりも受け止めるべきは、対談全体から伝わってくる「精神の温度」で、それはたとえばシステムであり評価関数であり最適化の視角とそれにまつわるもの。

それが人生のすべてではないことはもちろんだけれども、おそらくはこれからの時代を考える上で無視できないもの。

人間が大切なこと、個が尊いこと、生命がすばらしいものであることは間違いないのだけれども、これらのミネルヴァのふくろうたちは、時代という与件の変化の夕刻に飛び立つのだから、思考自体はとりあえずは自由でなければならない。

もちろん、それに対して自分が感じたことを率直にぶつけることも大切で、私は上のように感じたのだけれども。

(クオリア時評)


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