イギリス生活のささやかな楽しみ

 イギリスの夏は美しい。緯度が高いため、夜の9時すぎまで明るい空は、どこまでも澄み渡っていて、地上の芝生の緑とともに、独特の明るく、味わい深い風景をつくりだしている。日本の夏のように湿っぽくって暑くて死にそうになることもない。イギリスの夏は、快適である。このような夏を楽しむためだったら、長くて退屈な冬を我慢してもよいとさえ思えるほどである。
 このような夏の夜の楽しみとして最高のものの一つは、視覚的美と聴覚的美の組み合せである。すなわち、音楽を聴きながら、花火を楽しむことである。ハイドンの作品に、「宮廷の花火の為の音楽」というものがあるが、確かに、暮れ行く空を背景に次々と打ち上げられる花火と、バロック音楽はとてもよく似合う。イギリスでは、夏にはこのような「音楽と花火の夕べ」が割合頻繁に催される。
 私の行った「音楽と花火の夕べ」の一つは、ロンドン郊外のリッチモンド(Richmond)にある旧い邸宅の広い芝生の庭の上で行われた。聴衆は、音楽が始まる前の随分早い時間から、芝生のあちらこちらに寝っ転がって待っている。もちろん、準備は万端、シャンパンとグラスを用意して、すっかりピクニック気分である。私も、グラスの中のワインを飲みながら、音楽が始まるのを待つ。
 やっと、コンサートが始まる。ヴィヴァルディだ。夏の夕方のクリスタルのように澄んだ空気の中に、弦の美しい響きが充満していく。オーケストラがバロックの美しい音楽を奏でているうちに、あたりはだんだん暮色が強まってくる。しかし、まだ花火を上げるのには早い。どうせ、聴衆は美しい音楽とアルコールの作用で、花火が予定されていることも忘れて、すっかり良い気分になってしまっている。
 やがて、司会者が、今日の最後の曲ですと告げる。太陽はすっかり西に傾き、夕闇が深まっている。いよいよフィナーレだ。指揮者のタクトが振り下ろされる。その時だ。パーンと、一発めの花火が上がる。子供たちが体を揺すって喜びを表現する。大人たちも、歓声を上げる。パーン、パン、パパーン。音楽の進行に合わせて、すっかり暗くなった空に光の華が咲く。華やかな、祝祭的な雰囲気があたりを包む。音楽と花火の組み合せが、想像もしなかった美しい光景を、目の前に展開させる。そして、人々は、音楽と花火の間に共通点があることーその美しさは、時間の経過とともに消えていく運命にあり、絵のようにいつまでもつかんでいることができないことーを悟るのである。
 このような、「音楽と花火の夕べ」は、時に一生忘れられないほどの感動をあなたにもたらすことができるだろう。
 このような「音楽と花火の夕べ」は、別に「提供トヨタ」と書かれていなくても、意外な日本とのつながりを持っている可能性がある。実際、イギリスで打ち上げられる花火の多くは、輸入品でり、その多くは中国か日本からの輸入品ということになっている。しかも、日本から輸入される花火が、一番品質が良く、値段も張るということである。
 いずれにせよ、バロック音楽と花火という組み合せは、短い夏を精いっぱい楽しもうというイギリス人が生み出した様々な「楽しみのテクニック」の中でも、最高のものの一つであると私は考えている。

 もし、あなたが散歩をするのが大好きで、しかも、散歩のときには、大きな音を立てて四輪で走る機械には気を紛らわされたくないというならば、是非とも「公共歩道」(Public Footpath)を歩くべきである。英国生活の楽しみのうち最大のもののひとつは、この「公共歩道」を散歩することであるといっても過言ではない。
 「公共歩道」(Public Footpath)を探すのは簡単である。大抵、大きな忙しい通りの脇に、矢印の形をした小さな木の看板が立っているので、容易にそれとわかる。興味を惹かれたあなたがのぞき込むと、いかにも心地良さそうな人が一人通れるくらいの小道が、くねくねと曲がりながら遠くへと延びているのが見えるだろう。その、魅力的な誘いに抵抗するのは難しい。あなたは、抵抗せずに、ちょっと脇道にそれてみれば良いのである。きっと、素晴らしい発見があるだろう。
 「公共歩道」では、全く自動車という文明のもたらしたやっかいものに出会うことはない。もし出会うことがあるとすれば、口をもぐもぐさせている牛の鼻面や、退屈そうにあなたを見ている馬の長い顔くらいのものである。しかも、彼らに襲われる心配をする必要は全くない。あなたは「住居侵入」をしているにも関わらず、彼らは極めて寛容なのである。
 「公共歩道」が通るのは、大抵の場合、牧草地や、川沿いの空き地や、荒れ地の中である。ここで注意すべきことは、これらの土地は、大抵誰か個人の所有になっているということである。すなわち、「公共歩道」は、技術的に言えば、これらの土地を所有している個人の「寛容」により、公共の通路として使用することが許されているのだということになる。従って、「公共歩道」を使用するにあたっては、土地を所有している個人の権利を侵害しないように、「穏やかな」方法でそこを通過しなければならない。例えば、「公共歩道」の横でフィッシュ& チップスの露店を開いたり、横に十人の隊列を組んで行進したりしてはいけないのである!
 「公共歩道」は、従って、日本風に言えば「入会権」のようなものである。(「入会権」とは、例えば、裏山に入って薪を集めるとか、きのこをとるとか、慣習で認められた権利のことを指す。)
 「公共歩道」を巡る社会的理屈がどうであれ、あなたは、「公共歩道」の中に、イギリス生活のささやかな楽しみの一つを見いだすだろう。すなわち、それは、お金のかからない、小さな、穏やかな喜びである。

 イギリスには、「バタフライ・ガーデニング」(Butterfly Gardening)という趣味のジャンルもある。これは、庭に植物を植えるときに、見栄えの良い花を咲かせる植物や、観葉植物を植えるのではなく、蝶がその庭で繁殖しやすく、また、他の場所で繁殖した蝶が好んで訪れるような環境を作ろうというものである。
 イギリスは、土着の蝶の種類も数も少ないにもかかわらず、世界有数の蝶愛好家の国である。実際、イギリスにおける蝶の種類とその分布は、恐らく世界中で一番詳細に調べられているといってよいだろう。日本や、北アメリカなど、比較的蝶の種類とその分布が調べられている国でも、分布は地図の上におおまかなエリアとして示される。ところが、イギリスの場合は、蝶の分布地図は、点の集合体として表されるのである! それだけ、イギリスにおける蝶の分布は徹底的に調べられている。その徹底ぶりは、ひょっとしたら、それぞれの蝶の繁殖地に対応する郵便番号があるのではないかと思われるくらいである!
 私が、イギリスにおける蝶愛好家の上のような実体を知ったのは、イギリス南部のアンバリー(Amberley)という小さな村を訪れたときであった。この村の外れには自然居留地があり、そこの自然森を訪れることが目的だったのである。
 このような自然居留地(Nature reserve)は、イギリスの国土のあちらこちらに見られる。もっとも、だからといって、イギリス人は自然保護に熱心な国民であると感心してはいけない。日本と異なり、イギリスには人が居住することができない険しい山岳地帯というものはない。その平坦な国土は、その大部分が耕作、居住可能な土地である。従って、人々の為すがままに放って置けば、イギリスには、自然が残された土地は、皆無になってしまうのである。実際、イギリスの国土のほとんどは人の手の入った牧草地や耕作地である。従って、このような自然居留地は、まさに人工的な環境という「海」に浮かんだ孤島のような存在なのである。
 何れにせよ、その自然居留地の入り口に、小さなテントがあって、そこには一組の老夫婦が「店番」をしていた。「ナショナル・トラスト」のテントであった。「ナショナル・トラスト」は、周知のように、貴重な自然環境の残る土地を多くの人の募金により買い取ることによって、自然保護を図ろうという財団である。このテントでは、「ナショナル・トラスト」や他の自然保護団体が発行する様々な雑誌やパンフレットが売られていた。
 彼らと話をした私は、老人が蝶の愛好家であることを発見した。老人は、自宅の裏庭で、「バタフライ・ガーデニング」(Butterfly Gardening)をやっているのだという。時には、珍しい蝶を見に、ドーバー海峡沿いの崖や、ウェールズの山の中にまで行くことがあるということだった。老人の話は印象深かった。老人は、イギリスには、人間の手が入って人工的な環境を作っているからこそ生存できる蝶もいるとしきりに繰り返した。(確かに、そのような、人工的な環境でこそ生存できる蝶は存在する。日本で言えば、人手の入った牧草地に繁殖するオオウラギンヒョウモンが良い例である。)老人は、イギリスでは、人間の営みと自然のマイルドな共存関係があるということを強調したかったのだろう。少なくとも、そのような自然と人間の共存こそ、「ナショナル・トラスト」のメンバーとしての老人の理想であるように思われた。
 私は、日本の蝶愛好家の現状について語り、すっかり老人と意気投合した。そのうちに同行の友人がしびれを切らしそうになったので、私は「イギリスの蝶」という小さな本を購入してから、「ナショナル・トラスト」のテントを去ったのである。

 イギリス人の特徴の一つに、小さな、ささいな喜び(simple joy)を味わうという能力がある。リムジンに乗り、モーター・ボートで南の島に乗り付け、冷房の利いた室内で温水プールに入るというのは、イギリス人の好む「喜び」のスタイルではないのである。このようなイギリス人の感覚は、経済成長という幻想がその力を失いつつある現代において、世界中の多くの人が学ぶべき優れた特質の一つなのかもしれない。
 そのような理屈はさておき、お花畑をひらひらと舞う蝶を眺めて楽しむことは、多くのイギリス人が好む、文字通り「小さな」喜びの一つなのである。

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(著者注 この原稿は、1995年、最初の英国滞在の際に書いたものです。茂木健一郎)