イギリス人の俗物根性について。

 イギリスは、重苦しいと思われるほどの文化的伝統を持つ国である。斜陽気味とはいえ、イギリスの文化的伝統のいくつかのものは依然として素晴らしい。オックスフォードやケンブリッジのような大学は、小数の者しかその特権を享受できないという致命的な欠陥はあるものの、その教育システムには、アメリカや日本のようなマスプロ教育の大学が学ぶべき点が多々ある。
 しかし、このような素晴らしい社会的伝統の存在は、同時にそれに付随して様々な「勘違い」を生み出すことにもなったのである。何故ならば、これらの素晴らしい文化的伝統のまわりでうろちょろしているに過ぎないおっちょこちょいの人々にも、あたかもこれらの素晴らしい文化的伝統を創り出したのは自分であり、あたかも自分がそれを所有しているような錯覚を覚えさせることになったからである。  文化的伝統を自分が所有しているという錯覚は、裏を返せば、そのような文化的伝統を持たない人に対する、鼻持ちならない高慢な態度につながる。しかし、イギリス人はそのような高慢な態度を表面には出さないから、このような高慢さは、なかなか気がつきにくい。つまり、「イギリス風控え目(English Understatement)」の精神である。この、表面は丁重で、実は高慢であるという「慇懃無礼」な態度こそ、イギリス人の俗物根性の得意とするカムフラージュなのである。
 例えば、イギリス人は、自分が英語を喋れるということについて、英語を喋れない人間に対して「俗物」になり得る。あるいは、自分がロンドンに住んでいるということについて、ロンドンに住んでいない人に対して「俗物」になり得る。あるいは、オックスフォードやケンブリッジの卒業生は、そうでない人に対して「俗物」になり得る。
 ある時、私はロンドンで行われた会議で、隣に座った学者と話していた。その人は、私が何を言っても丁重に答えるのであるが、同時に、「本当はそんなことはどうでもいいのだけれど」(I don't care really)という雰囲気を会話の端々に匂わせるのであった。そして、同時に、「もし、私がその気になれば、君の言うこととは比較にならないくらい素晴らしいことを言えるのだけれどもなあ。」という態度を取るのである。もちろん、そのような「素晴らしい」ことを実際に言うわけではないし、また言うこともできないのであるが! いずれにせよ、その「俗物」ぶりは、失礼にならない程度に抑制された、ほれぼれするほどの絶妙なバランスの上に成り立っていた。それは、実際、「芸術」と言ってもよいほどであった。
 やがて、その人物は、「もう行かなければならない。私はケンブリッジに戻らなければならないから」と言って立ち上がった。私は、内心、「ケンブリッジに戻らなければならないからどうしたというのだ!」と毒づいたが、もちろん、表面上はにっこりと笑って「会話できて楽しかった」と答えたのである。この時ほど、私は自分がイギリスの妙な習慣に毒されたと感じたことはなかった!
 結論。英国生活の達人は、イギリス人の俗物根性にいちいち腹を立ててはいけない。英国生活の達人は、むしろ、イギリス人の芸術的な俗物ぶりを、微笑んで享受しなければならないのである。


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(著者注 この原稿は、1995年、最初の英国滞在の際に書いたものです。茂木健一郎)