アメリカ人の王様選び

 英国生活の達人は、イギリスとアメリカを結ぶ、いわゆる「大西洋横断便(TransAtlantic Flight)」を利用することがしばしばあるかもしれない。
 この、「大西洋横断便」を利用することは、ある意味では日本の世界における位置付けを考える上で極めて示唆的である。最近では、環太平洋地域の重要性が増してきたのでそれほどではないにしても、大西洋をはさんでアメリカとヨーロッパは、かっての世界の「中心」であった。大西洋から見れば、日本は、世界の果ての海に浮かぶ不思議な島ということになってしまう(もっとも、かなりの点でこれは真実かも知れないが)。とりわけ、同じ英語を話すアメリカとイギリスの間の一種の親近感、一体感は、我々日本人にはなかなか理解しにくいところがある。
 例えば、アメリカで話される言葉は、未だに「アメリカ語」とは呼ばれずに、「イギリス語」と呼ばれている。また、今日のアメリカ人の大多数は、もともと、イギリスから移民した人々である。また、多くのイギリス人は、彼らの親戚の誰かが現在アメリカにいるか、かってアメリカにいたという経験を持っている。従って、本来「疎遠」なイギリスとフランスの間に海峡トンネルが開通するのならば、近い未来にイギリスとアメリカの間に大西洋海底トンネルが開通するのは間違いないというくらい、両国は親密な間柄なのである!
 しかし、アメリカ人とイギリス人が実は同じ精神構造をしていることを何よりも如実に示しているのは、彼らの「王様」に対する熱狂ぶりである。 
 アメリカ人にとっては、四年に一度、自分たちの「王様」(アメリカにおける英語の乱れは大変なもので、アメリカでは、「王様」のことを、「大統領」と呼ぶ習慣があるが、これはアメリカなまりの英語であると思えば良い)を選ぶことが、他の何よりも興奮する娯楽である。実際、アメリカ人がイギリスから独立して「大統領制」を選んだのも、この四年に一度「王様」を選ぶという楽しみのためなのである。アメリカ人にとっては、イギリス人が何故王様が「死ぬ」まで、次の王様を選ぶという楽しみを延ばすのか、理解できないのである。四年に一度、「王様」をいわば「殺して」、もう一度「王様」を選びなおした方が、楽しみがもっと頻繁に持てるではないかというわけである。
 一方、イギリス人も、実は自分たちには自分たちの王様を選ぶ権利があると思っている。様々な個人的な不幸に見舞われている現在の皇太子を中傷し、その「王」としての適格性を問う新聞記事が絶えないのがその証拠である。そして、同時に、今や公的生活から引退したと伝えられる皇太子の配偶者の方が、次の女王にふさわしいのではないかという記事まで見られる。
 一度、あまりにもこの手の記事が多いので、私は、知合いのイギリス人に聞いたことがある。
・私「イギリスでは、王位継承順位は決っているのか? それとも、会議を開いて決めるのか?」
・イギリス人「もちろん、王位継承順位は決っている。」
・私「それでは、皇太子が王になるのがふさわしいかどうか議論することに、意味がないではないか。」
・イギリス人「その通りだ。」
・私「皇太子の配偶者、つまり、ダイアナが、女王になる可能性はあるのか。」
・イギリス人「その可能性はない。」
・私「それでは、皇太子が王になるのがふさわしいか議論したり、ダイアナが女王になるのがふさわしいか議論したりするのは、全く意味がないのに、イギリス人は皆議論するわけだ。なんと暇な国民だろう。」
・イギリス人「・・・この国には、「言論の自由」というものがあるんだよ・・・。」
 というわけで、アメリカ人が次の大統領に誰がふさわしいかを胸をわくわくさせながら議論するように、イギリス人も、次の王様には誰がなるのがふさわしいかを胸をわくわくさせて議論するわけである。というのも、どちらの国も、「言論の自由」を誇る国だからである!
 イギリスとアメリカが、その表面上の政体の違いにも関わらず、実は「王様」に対して同じ感情を抱いていることを証言しているのは、一連の絵画の作品である。すなわち、ロンドンの国立肖像画廊(National Gallery)には、歴代の王や女王の肖像画が展示されている。それに対して、ワシントンの国立肖像画廊(National Gallery)には、歴代の大統領の肖像画が展示されている。どちらの国民も、歴代の王様の顔を見るのが好きなのである。唯一の違いといえば、アメリカには、未だかって「女王」、すなわち女性の大統領がいないことである!
 結論:その表面上の差にも関わらず、イギリスとアメリカは、文字通り、「親戚」、しかも、かなり血のつながりの濃い「親戚」なのである。

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(著者注 この原稿は、1995年、最初の英国滞在の際に書いたものです。茂木健一郎)