イギリス人は王室(Royal Family)について騒ぐのが好きな国民である。
 とりわけ、いわゆる「大衆紙」と呼ばれるタブロイド版の新聞には、殆ど毎日と言ってよいほど王室関係の記事が出る。
 イギリス人が王室関係のゴシップにこれほど情熱をそそぐ理由は、誠に簡単である。他に、わくわくして熱中できるような話題がないからである。逆に言えば、それだけ、イギリスという国が良くいえば成熟した、悪く言えば、めぼしいダイナミックな変化のない国になっているということである。
 イギリス人が王室について語り続けるのは、別の見方をすれば、一種の不安解消の心理である。イギリス人は、自分たちの国のアイデンティティがこれからも確固としたものであり続けるか、不安で不安で仕方がないのである。従って、王室について語ることで、辛うじて保ち続けている国家としての継続性と統一性を確認しているのである。いわば、子供が、おしゃぶりをくわえ続けていないと不安で仕方がないのと同じことである。
 イギリス人が、サッカーについてあれほど騒ぐのも、似たような心理である。「階級」などの厄介事と無関係なスポーツに熱中できることで、イギリスという国がかろうじて一つのまとまりであることを確認しているのである。言わば、王室とサッカーは、イギリス人の生活に刺激と彩りを与えるために欠かせない二つの必須栄養素であって、この二つがないと、イギリス人は恐らく退屈の余り死んでしまうことになるだろう。
 この点については、イギリスの大衆紙の紙面構成が良い証拠になっている。すなわち、大抵の場合、新聞は王室とサッカーのサンドウィッチになっている。すなわち、一面と最終面の一番目立つ紙面を王室とサッカー関係の記事が占め、そしてその間に、イスラエルとパレスチナの間に和平が成立したとか、イタリアの首相が変わったとかいう「どうでもよい」ようなニュースが挟まれるというわけである。

 イギリスのある程度の規模の公共施設(美術館や、コミュニティーホール、劇場など)に行くと、かなりの確率で目にするのは、「このホールは、xxxx年xx月xx日、かしこくも女王陛下の臨席の下にオープンした」というようなプレートや記念碑である。まるで、この国では、女王の重要な仕事は、テープを切ることであるかのような印象を受ける。
 イギリス人は、王室のことを語るのが大好きである。そして、自分の国の対外イメージはもちろん、様々な社会的、文化的、経済的制度についてイメージをつくるときにも、極めて安易に王室を引き合いに出す。その安直さは、まるで、イギリスの社会は、どこを切っても王室が出てくる金太郎飴のような社会であると思わせるほどである。
 イギリス人は、例えば、郵便にしても、彼らはロイヤル・メイル(Royal Mail)という名称を付け、わざわざ王室に言及する。そして、ロイヤル・メイルのマークは、もちろん王冠のマークである。もちろん、別に、郵便を王族が配っているわけではない! また、イギリス人は「王室御用達」(By Appointment to Her Majesty the Queen)というのが大好きである。紅茶やジャム、ミントチョコレートなど、取り立てて素晴らしい品質のものとは思えないようなものにまで「王室御用達」のマークがやたらと付けられている。もちろん、別に、このマークを付けたジャムをエリザベス女王が毎日嘗めているわけではない! そして、イギリスの貨幣や紙幣である。5、10、20、50ペンス、1ポンド硬貨、5ポンド、10ポンド、20ポンド紙幣、全て、いまや御老体となられた高貴な女性の肖像で溢れている。
 どうやら、イギリス人は、王室に大変御執心らしい。その御執心ぶりは、まるでパラノイアのようである。
 極端なことを言えば、イギリスにおける全ての権威、正統性の根拠は、未だに「王室」なのである。例えば、日本の学士院にあたる王立アカデミー(Royal Society)は、イギリスの学者にとってそのメンバーになることが最高の名誉にあたる組織である。学問にとって王様が誰であろうが関係ないはずなのに、この学者の最高の組織は、あくまでも(王立アカデミー)なのである。そして、王立アカデミーの新しいメンバーは、エリザベス女王に肩を剣で叩いてもらって喜ぶことになっている。また、イギリスでは、未だに社会的成功の究極の指標はSirやLadyと呼ばれることである。(あのマーガレットサッチャーも、今ではLady Thatcherと呼ばれる身分になった。明らかに、彼女の人生は大成功だったらしい。)21世紀も近いというのに、未だに、このような社会的冗談を、これほど熱心にやる国民は見たことがない。
 以上のような「王室」に対する深い御執心ぶりは、不思議なことに未だに世界の中でも最も民主的な政治制度と心地よく共存している。この不思議な共存関係は、イギリスという国の英知が最もよく表れている社会現象の一つであり、それは、どこか深いところで紅茶にミルクを入れるという発明と結び付いているのである。

 ところで、イギリスの王室は、日本の皇室に比べて、よりオープンであると言われる。確かに、イギリスの王室はまるで芸能人一家のような扱いをマスコミから受けている。イギリスの芸能人は、どんなに有名になっても、そのマスコミへの露出度という点では、イギリス王室にはとてもかなわない。
 そのようなイギリス王室の「オープン」ぶりを見るには、ロンドンの中心、国会議事堂(ビッグ・ベン)の隣にある、ウェストミンスター寺院を見に行くと良い。
 ウェスト・ミンスター寺院は、言わば、英国王室御用達の教会である。記憶に新しいところでは、チャールズ皇太子とダイアナ妃の結婚式はここで行われた。また、王や女王が亡くなったときの葬儀も、ここで行われる。ウェスト・ミンスター寺院は、まさにゆりかごから墓場まで、英国王室の喜びと悲しみを全て目撃してきた由緒ある場所なのである。
 ウェスト・ミンスター寺院には、様々な有名人の墓碑がある。例えば、「詩人のコーナー」には、シェークスピアを始め、テニソン、バイロンなどの墓碑銘が刻まれている。また、科学者のコーナーには、アイザック・ニュートンの墓を中心に、チャールズ・ダーウィンや、アルフレッド・ウォレスなど、英国の科学の名声を高めてきた科学者たちの墓が並んでいる。
 しかし、このウェストミンスター寺院で最も重要な墓碑は、寺院の奥にある「王のチャペル」(King's Chapel)にある、英国王室の歴代の王、女王の墓に見ることができる。そして、驚くことに、これらの歴代の英国の国家元首の墓は、あっけらかんとしているほどあけっぴろげに公開されているのである。その「公開度」は、大英博物館でその無残な姿を観覧者にさらしている古代エジプトのミイラたちと、あまり変わるところがないほどである。従って、大英博物館でこれらのミイラがさらしものにされている様子を見て、「外国人」や「外国文化」に対する差別であると憤ってはいけない。イギリス人は、あくまでも平等なのである。何しろ、自分たち自身の王様さえ、エジプトのミイラと同様に扱っているくらいなのだから。
 墓ばかりではない。なんと歴代の国王が王位に就く際に使用した「戴冠の椅子」も、人々の手の届くところにさりげなく置かれている。その「戴冠の椅子」は、イギリスで最も古いアンティークの一つであるという点を除いては、なんの変哲もない単なる古ぼけた木のかたまりである。スコットランドかどこかのパブの片隅に転がっていたとしても、誰も気がつかないだろうというような代物である。
 戴冠の椅子と墓という、王位の神秘性と継続性を維持する上で最も重要な二つのアイテムが、人々の手垢にまみれるような開かれた場所にあるということは、イギリス人の王室に対するイメージに、大きな影響を及ぼしていると言わざるを得ない。そこには、中世の「王権神受説」から連想されるような、神秘性は微塵もないのである。このような王権の扱いを目の当たりにすると、イギリスのマスコミの、王室に対する容赦ない取材攻勢も、納得できるような気がする。イギリス人にとっては、王室は、単に非常に由緒のある家系と、それをとりまく文化的装置を意味するに過ぎないのである。
 
 何れにせよ、イギリス人にとって、王室は、依然として非常に大きな心理的存在感を持っている。ある意味では、王室は、イギリスがイギリスたる所以であると言ってもよい。将来、もしイギリスの象徴王制が終了するようなことがあれば、その時こそ、イギリスがもはやイギリスではなくなる時であろう。

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(著者注 この原稿は、1995年、最初の英国滞在の際に書いたものです。茂木健一郎)